クヌート大王と北海帝国

クヌート大王と北海帝国(1)

北海帝国の名は、後のアンジュー帝国と同じく、広大な領域を支配した勢力を呼び表す便法として後に名付けられたもので*1、当時、そう呼ばれた一つの国があったわけではない。

期間もクヌート大王一代(20年弱)で、少し広く取って父スヴェン王のイングランド侵攻時から子のハーディクヌートの死までとしても30年弱に過ぎない。

*1 毎回、イングランド、デンマーク、ノルウェー王のクヌートと書くのは面倒であり、かと言って単にデンマーク王と書くとその実態が分からなくなる。

デーン王朝は、アングロ・サクソン史観の近現代のイギリス史においては徒花扱いを受けている。ノルマン征服は現在のイギリスに続く歴史である為、受け入れざるを得ないが、デーン王朝はヴァイキングの侵略による一時的な現象で長続きはせず、アングロ・サクソン王朝が復活して元に戻ったと見なされている。

しかし、すぐ対岸にあるフランク王国*2がイングランドにあまり興味を示していないのに対して、デーン人やノルマン人*3がイングランドに興味を示しているのは、偶然ではない。

*2 西ローマ帝国を名乗り、西欧の大部分を支配したが、イングランドは攻めていない。。
*3 ここでは、ノルマンディに定住したヴァイキングのこととする。

この図を見てもらいたい。オレンジ色がデーン系、赤がノルウェー系、黄色がアングロ・サクソン*4、緑が低地ドイツ語の地域で(点在しているオレンジはノルマンディとルーシ、そしてデーンロウのヴァイキングの移住地域)、10世紀においては、これらの言語は相互に意思疎通が可能なくらい近かったそうだ*5。Old_norse,_ca_900.PNG

*4 低地ドイツ語圏から移住している。
*5 対して高地ドイツ語との差の方が大きかったようだ。

北海帝国が、イングランド、デンマーク、ノルウェー、スウェーデンの一部から構成され、神聖ローマ帝国との関係が深かったのは必然なのだ。

ヴァイキングの活動は8世紀末から始まり、既に9世紀の終わりにはイングランドの東部半分はデーンロウ(デーン人の法の地域)と呼ばれるデーン人の国になっていたのだが、この時に有名なアルフレッド大王が出て、デーン人勢力を押し返し、やがてその子孫達はデーンロウ地域も宗主下に収めて、イングランド王を名乗ったわけだ。

しかし、978年にエセルレッド無思慮王がエドワード殉教王との王位争いとその暗殺により王位に就いてからはイングランドは安定せず、990年ごろから再び大規模なヴァイキングの侵攻を受けるようになった。対抗できない無思慮王はデーンゲルドと呼ばれる税を集めて、デーン人に支払うことにより略奪を逃れていたが、1002年にノルマンディ公リシャール1世の娘エマと結婚して同盟すると一転して強気になり、同年にイングランド内のデーン人の虐殺を命じた(聖ブライス日の虐殺)*6。

*6 この辺はアングロ・サクソン王朝の終焉で既に書いている。

デーン人を追い出す決意を示したのかもしれないが、かなり乱暴である。たぶん、外来のデーン人の襲撃に土着のデーン人も加わっていることを腹に据えかねたのだろうが、デーン人も当然一枚板ではなく、むしろ土着のデーン人を味方に引き入れて、外来のデーン人と戦うべきだったろう。この虐殺のせいで、以降、土着のデーン人は外来のデーン人と共に、アングロ・サクソン人と戦うことになる。

北欧では、既にデンマーク、ノルウェー、スウェーデンの3つの王国ができており、980年にハラルド青歯王*7がキリスト教に改宗して、西欧カトリック世界の一員になり始めているのだが、北欧諸神の多神教*8が根強く、一神教徒になったというより、多神教にキリスト教の神が加わった*9程度に受け止めていた者が多かったようだ。

*7 機器通信規格であるブルートゥースは、この王の仇名から来ている。
*8 所謂、北欧神話の神々で、本来はゲルマン神話の派生であるが、ドイツ地域では既に失われていた。
*9 多神教は、他の神々を仲間に入れて広がっていく。

青歯王の子であるデンマーク王スヴェンはノルウェーを破り、その半ばを支配下においてノルウェー王を名乗っており、さらに、聖ブライス日の虐殺でデーンロウ地域に嫁いでいた妹が殺されたことを口実に、大規模なイングランドへの侵攻を繰り返したが、勝利を収めることはできなかったようだ。

ところが、1010年頃にヨムスヴァイキングの首領と言われるトルケルが広範囲にイングランドを略奪し始めたのに乗じて、1013年から王位を主張して本格的な侵攻を始めた。トルケルの略奪に疲弊し、無思慮王に失望したイングランド貴族は次々とスヴェンに降り、ロンドン市が抵抗したものの*10、やがて降伏を決め、無思慮王は妻の実家のノルマンディに亡命し、1014年にスヴェンはイングランド王として戴冠したが、数週間後に亡くなった。

*10 スヴェンの侵攻時には、トルケルは無思慮王やロンドン市に雇われている。

クヌート大王と北海帝国(2)

スヴェンの次男クヌートは、イングランド侵攻に従軍しており、親デーン派の貴族はクヌートを王に推戴したが*11、反デーン派は亡命していたエセルレッド無思慮王を呼び返し、敗れたクヌートはデーンマークに戻った。

*11 クヌートは、サクソン貴族の娘エルギフと結婚して長男のスヴェンも生まれていた。

デンマークでは、既に長男ハラルド2世が即位しており、兄と協定を結び、デーンマーク王位の権利を放棄する代わりに、イングランド侵攻の援助を受け、1015年にイングランドに再び侵攻した。イングランドでは無思慮王とその子供達が争っており、一致した対応ができなかったが、1016年4月に無思慮王が亡くなると、長男エドマンドが即位した。

クヌートは同年に「アシングドンの戦い」でエドマンドに勝利し、王国を分割する協定を結んだが、まもなくにエドマンドが亡くなり、全イングランドの王となり、無思慮王の王妃だったエマと結婚してノルマンディの干渉を抑えた*12。

*12 無思慮王とエマの息子のエドワード(懺悔王)とアルフレッドは母の実家ノルマンディに逃れていた。

兄のデンマーク王ハラルド2世は子供の無いまま、1018年ごろに亡くなり、クヌートはデンマーク王になったが、彼の関心の多くはイングランド支配の確立に向けられていた*13。

*13 新たな征服地のイングランドの方が手間が掛かることもあるが、元々スヴェンの時代からクヌートの担当はイングランドで、こちらが本拠地との意識が強かったようだ。

1014年のスヴェン王の死後、ノルウェーでは地元の王家の血を引くオラフ2世が即位しており、積極的にライバル達を倒してノルウェーを統一し、ノルマンディとも同盟してスウェーデンと戦い、1019年には有利な立場で同盟を結ぶことに成功し、クヌート不在の間に、一躍、北欧の大勢力になろうとしていた。

この情勢にクヌートは、1026年にイングランド、デンマークの海軍を糾合し、ノルウェーとスウェーデンの連合軍をヘルゲアの海戦で破り、北欧の覇権を握った。

1027年には北欧の代表としてローマに行き、神聖ローマ皇帝コンラート2世の戴冠式に出席している。神聖ローマ帝国と協定を結んで、その支配を認められ、またローマ教皇とも対面し、カトリックの保護を約束する代わりに教会の支持を求めたようだ*14。

*14 この辺で、名実共に、キリスト教世界の一員になった感がある。

こうして大義名分を得てローマから帰ると、1029年にノルウェーに入り、オラフ2世は逃亡し、正式にノルウェー王として戴冠した。クヌートはスウェーデンの一部も支配し、デンマーク、イングランド、ノルウェー、スウェーデンの王を名乗り、クヌート大王による北海帝国が成立したと言える。

1026年からデンマークには息子のハーデクヌート*15を置き、ノルウェーには、1030年からエルギフとその長男スヴェンを置き、イングランドはクヌート大王が直接支配すると共に、エルギフとの次男のハロルド(兎足王)を手元に置く体制を作り上げている。

*15 エマとの間の長男で、跡継ぎと見なされていた。

クヌート大王と北海帝国(3)

クヌート大王は外国人の王として、イングランド史では冷たい扱いを受けているが、彼の治世の間、イングランドはヴァイキングの襲撃を受けず*16、強大な北海帝国の中心として繁栄している。

当初は、各州の伯(Earl)にはトルケルなど功績のあったデーン人を任命したが、おそらくアングロサクソン人と宥和すると共に権力内のバランスを取る為に、後にマーシアにはレオフリック*17をウェセックスにはゴドウィンを任命しており、彼の治世ではデーン人とアングロサクソン人の宥和と婚姻が進み、新たにイングランド人が誕生しつつあったとも言える*18。

*16 ヴァイキングの親玉が王のため、当たり前だが。
*17 裸で馬に乗った逸話で有名なゴディバ夫人の夫。
*18 例えば、ゴドウィンとデーン人女性との子が、「ヘイスティングズの戦い」で敗死したハロルド2世・ゴドウィンソンである。

クヌートは他の北欧人と違い、キリスト教の信仰が篤かったといわれており、クヌートと波の説話*19は現在でも知られている。カトリック世界と結びつくことの利益を考えて、教会の建立や寄進や税の免除を行ったため、そのように書かれてたようで*20、当時の典型として、北欧の神々を讃えているし、教会の非難にもかかわらず、実質、エルギフとエマの2人を妻としていたようだ。

*19 玉座を波打ち際において、自分では波を止められないことを認め、「王は無力だが、神こそ全能の王である」と述べて、十字架に王冠を掛けたとされる。但し、これは相手が海神ニョルズでも同じで、キリスト教である必然性はない。
*20 当時、記録を残す人はほとんどが聖職者である。

しかし、1035年にクヌートが亡くなると、デンマークではハーデクヌートが問題なく即位したが、ノルウェーでは反乱が起こり、前王の子マグヌスが即位し、エルギフ、スヴェンの母子は逃亡した。スヴェンはハーデクヌートと共に王位奪回を謀ったが、敗れて戦死している。

エルギフのもう一人の息子ハロルド(兎足王)はイングランドにおり、当初はハーデクヌートの総督とされたが、まもなくイングランド貴族の推戴でイングランド王に即位した。

やはりイングランドにいた王妃エマは、息子のハーデクヌートが北欧の争いで手を放せないため、ノルマンディから無思慮王との息子エドワード(懺悔王)とアルフレッドを呼び寄せたが*21、ハロルド兎足王派の貴族*22に騙され、エドワードとエマは逃げたが、アルフレッドは捕らえられて目を潰され、その傷でまもなく死去した。

*21 エルギフがエマの名を騙って呼び寄せたと言う説もある。
*22 ウェセックス伯ゴドウィンとの説があり、このため懺悔王はゴドウィン一族を憎んでいたとも言われる。

ハーデクヌートは北欧では和解し*23、1040年にイングランドに向かったが、既に兎足王は亡くなっており、すんなりと王位に就いた。生来、病弱で子供がおらず、またイングランド貴族の好意を得る為に異父兄のエドワード(懺悔王)を呼び寄せ共同統治者としたが、1042年に亡くなった。

*23 跡継ぎがいない場合、お互いが継承する条約を交わした、この為、ハーデクヌートの死後、マグヌス王はデンマークとイングランドの王位を主張している。

デンマークでは協定に従って、ノルウェー王マグヌスが王位に就いたが、クヌートの妹の子のスヴェン(2世)が王位を主張し、マグヌスが1047年に亡くなると、単独の王として支配を固めた。

イングランドではエドワード懺悔王が単独王となり、北海帝国は解体したが、その後も、ノルウェーやデンマーク王はイングランド王位を狙っており、懺悔王は北欧勢力とノルマンディとイングランド貴族のバランスを取りながら危うい統治を続けていたが、1066年に亡くなり、ノルマン・コンクェストにより、イングランドの歴史は北欧から離れ、フランスと密接に関わることになる。

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