哀愁のナポリ王国

シチリアの晩鐘によりシチリア島を失い、ビザンティン遠征も頓挫したシチリア王シャルル・ダンジューは、ローマ教皇とフランス王フィリップ3世(彼の甥)に働きかけ、アラゴン十字軍としてその後もシチリア島の奪回を目指したが成功せず、シチリア島はアラゴン分家のシチリア王国となり、残った南イタリアを支配するシャルルのカペー・アンジュー家は依然としてシチリア王を名乗ったが、一般的にはナポリ王と呼ばれるようになった。

1285年に即位した足が悪く跛行王と呼ばれた息子のシャルル2世(カルロ2世*1)は、戦争は下手でアラゴンとの戦いには負け続けたが、子供は沢山おり、彼の子孫はハンガリー・アンジュー朝、フランス・バロア朝、アラゴン王家に繋がって、この後のヨーロッパ情勢に影響を与えることになるが、反面、将来の同族間の継承争いを複雑にした面もあった*2。

*1 カルロはイタリア発音、カーロイはマジャール発音で、どちらもフランス語では始祖と同じシャルルである。この王朝はフランス、ナポリ、ハンガリーが関わっているので、人物表記を統一しづらい。
*2 子供が少ないと血統が絶える危険性があるが、多すぎると継承争いが起き易く、王侯の子供の数は非常に難しいものである。

継承の複雑さは3代目のロベルトの時に既に発生しており、カルロ2世の王妃マリアはハンガリー王女だったが、ハンガリー王家の直系男子が絶えたため、長男であるカルロ・マルテルはハンガリー王位争いに加わり、大部分をハンガリーで費やし1295年に亡くなっており、その長男は、カルロ2世が死亡した1309年時点でカーロイ1世としてハンガリー王になったばかりであるため、ナポリ王位は後に賢王と称される三男のロベルトが就いた(次男は聖職者となっている)。

ロベルト一代[在位:1309-1343]の間はナポリは繁栄した。ローマ教皇庁は既にアヴィニョンに移っており、その代理人として教皇領を支配し、北イタリアではゲルフ(教皇派)の旗頭として活躍し、ドイツ勢やギベリン(皇帝派)と争った。ナポリの都は整備され、現代に100万ドルの夜景と称される大都市に発展している。国際的にも本家のフランス王家は教皇庁も勢力下に収める欧州最強の勢力*3であり、中欧の大国ハンガリーもハンガリー・アンジュー家であった。

*3 1337年に百年戦争は始まっていたが、当初はイングランドは脅威とは思われていなかった。

しかしロベルトの長男カルロは娘のジョヴァンナ(1世)を残して既に亡くなっているため、継承問題が発生した。シチリア王国では伝統的に女系継承が存在したが、本家のフランス王家はルイ10世の死後(1316年)に男子限定継承(いわゆるサリカ法)を定めているため、男系分家のタラント・アンジュー家やドゥラッツォ・アンジュー家*4からそれに従うべきとの不服が出ており、さらに本来の長系であるハンガリー・アンジュー家のラヨシュ(ルイ)大王[在位:1342-1382]が王位を請求し始めた。

*4 どちらもカルロ2世の息子でロベルトの弟を始祖とする。

そこで妥協策としてラヨシュ大王の弟エンドレ(アンドラーシュ)とジョヴァンナが結婚して共同統治することになったが、ジョヴァンナとその取り巻きは、大国ハンガリーを後ろ盾として国政の主導権を握ろうとするエンドレに反感を抱き、両者の対立は遂に1345年にエンドレの暗殺に繋がった。

当然、ジョヴァンナの指示によるものとの疑いが起こり、ハンガリーはエンドレの弟イシュトヴァーンを代わりに夫として押し込むことを要求したが、ジョヴァンナはこれを拒否し、タラント家のルドヴィーコと結婚して対抗したため、1347年にラヨシュ大王はハンガリー軍とドゥラッツォ家などの対立勢力を率いてナポリに侵攻した。戦いでは勝負にならないジョヴァンナはアヴィニョンを教皇領にする条件*5でアヴィニョン教皇に仲介を求め、ハンガリーと和解してナポリに戻ることができたが、その後もハンガリーやドゥラッツォ家などとの緊張関係は続いた。

*5 この後、アヴィニョンはフランス革命まで教皇領だった。

ジョヴァンナの子供はいずれも早逝しており、ルドヴィーコの死後、1363年に王国を失っていたマヨルカ王ジャウメ4世*6と、1376年にブラウンシュヴァイク=グルーベンハーゲン公オットーと結婚したが子供はできなかった。

*6 アラゴンの分家だがアラゴン王と対立して王国を奪われていた。彼は王国の回復のために、まずイングランドの支援を期待して、エドワード黒太子やカスティラのペドロ残酷王と共にエンリケ・トラスタマラ(恩寵王)と戦い、次いでエンリケ恩寵王と共にアラゴンのペドロ4世と戦ったが、いずれも成功せず、カスティラとアラゴンの和解が成立した後、再び、アラゴンに併合された。ジョヴァンナから資金援助は受けているが、ジョヴァンナは直接関与はしていない。

なんとか王位を維持してきたジョヴァンナだが、1378年からの西方教会大分裂のとばっちりを受けることになった。本家のフランスに従い、アヴィニョン教皇クレメンス7世を支持したが、このため1381年にローマ教皇ウルバヌス6世はナポリ王位を彼女から取り上げ*7、ドゥラッツォ家のカルロに与えた。ジョヴァンナはフランス王シャルル5世の弟で現在のアンジュー公(バロア・アンジュー家*8)であるルイを養子とし後継者としていたが、おりしも1380年にシャルル5世は亡くなっており*9、百年戦争の中、幼いシャルル6世の後見人であるルイはフランスを動けず、カルロはジョヴァンナの夫オットーを破るとジョヴァンナを捕らえて幽閉した。翌年にアンジュー公ルイの進撃準備を聞いたカルロはジョヴァンナ女王を絞め殺して*10王位に就いた。

*7 一応、ナポリ/シチリア王国の宗主は教皇である。
*8 ルイの祖父であるバロア朝初代王フィリップ6世の母はカルロ2世の娘であるため、ナポリ王家の血統を受け継いでいる。
*9 ウルバヌス6世が強硬策を取れたのはシャルル5世が亡くなったからだろう。
*10 カルロはハンガリー・アンジュー家の庇護を受けており、かって枕で窒息死させられたエンドレの報復とされている。

このような状況にいたったのは、多分にジョヴァンナが女性だったためで彼女の責任ではないが、エンドレの暗殺によるハンガリーとの不仲や血縁とは言え遠縁のアンジュー公ルイを後継者にして、今後の継承争いの原因を作り、これまでナポリ王国が所有してきたプロヴァンスもルイに譲渡してしまうなど彼女の治世下でナポリ王国の国力は低下した。ナポリは各国の争奪対象となり、後のイタリア戦争にも繋がることになる。

最新

ページのトップへ戻る