ハプスブルクの結婚戦略

ハプスブルクの結婚戦略(1) - 戦争は他家に任せておけ


「戦争は他家に任せておけ。幸いなオーストリアよ、汝は結婚せよ」

政略結婚で知られるハプスブルク家であるが、中世の王侯家が政略結婚により領土獲得を目指すのはごく当たり前の話で*1、ハプスブルク家の場合、その効果が顕著で、欧州の最大勢力に駆け上がったため目立っただけである。

*1 結婚と女系継承参照。欧州の同君連合は、いずれも政略結婚の結果である。むしろフランスの方がえげつない。

冒頭の言葉はハプスブルク関係の文章では必ず引用され、しばしばモットーと書かれることがあるが、少なくとも正式なモットーではなく、おそらくハプスブルク家が言い出したものでもない。むしろ大して戦争が強くもないのに欧州最大勢力に上り詰めたことに対して他者が揶揄したものをハプスブルク家が取り入れたもののようだ。

ライバルだったハンガリー王マチアス・コルウスが戦争に勝ち続けて領土を拡大したにも係わらず、嫡子が無いばかりに死後に全てが無に帰したのに対して、負け続けたハプスブルク家が婚姻により大帝国を築いたことを皮肉に表現したのかも知れない。

やたら政略結婚をしてきたように言われるが、ハプスブルク帝国を作り上げたのは、たった4回の結婚政策によるものである*2。ハプスブルク顔や遺伝病などは、この帝国を他家に渡さないために、ハプスブルク家同士の婚姻を重ねたことによるものなのだ。この4回のうち3回はマクシミリアン1世が企図したもので、ハプスブルク帝国を築いた立役者と言える。

*2 むろん詳細に挙げると多いのだが、この4回でほとんど形作られている。

ハプスブルク家は、13世紀後半に大空位時代の後、ルドルフがドイツ王・皇帝となったが世襲にすることはできず、14世紀前半までにアルブレヒト、フリードリヒ美王が断続的ながらドイツ王になってから、15世紀半ばにアルブレヒト2世がドイツ王に即位するまでの約100年間、神聖ローマ帝国のトップから離れて堅忍自重の時期が続いていた。

当初はドイツ王を争うヴィッテルスバッハ家とルクセンブルク家の間でキャスティング・ボートを握ろうとし、ルクセンブルク家が安定した頃は友好関係を保って勢力維持を図っていた感じだが、金印勅書では選帝侯とはされず、ルドルフ建設公はオーストリアが特別な地位をローマ皇帝から承認されているという文書を偽造し、オーストリア大公と自称して自分を慰めている状態で*3、その後、オーストリアはアルブレヒト系(本家)とレオポルト系に分割相続され、1386年のゼンバッハの戦いの敗戦でスイスへの影響力を大きく失っていた。

*3 もっとも単に自己満足だけでなくオーストリアを王国に匹敵する中央集権的国家にすべく改革を行っている。但し、野心的過ぎてほとんどは彼の死後に撤回されているが、将来のオーストリアの道標となったと言える。

しかし、ルクセンブルク家の最後の皇帝ジギスムントに嫡男ができなかったことで再び運が開けてきた。ジギスムントはポーランド・リトアニアのヤギェウォ家と対立したため、ハプスブルク家の助力を必要としており、1422年に本家のアルブレヒト(2世)がジギスムントの一人娘エリザーベトと結婚した。この時点でジギスムントの妻バルバラには13年間子供ができず、この先できる可能性も少ないため後継を前提としていたようである*4。

*4 但し、バルバラが死去すれば、新しい妻を得て男子を作る可能性はあるが、その場合でもジギスムントにはハンガリーの継承権がないため、ハンガリーはエリザーベトが継承することになる。

1437年にジギスムントが亡くなると、アルブレヒト2世は無事にドイツ王、ハンガリー王、ボヘミア王*5を継承したのだが1439年に死去してしまった。

*5 但し、ボヘミアはフス戦争により実効支配できていなかった。

アルブレヒト2世の死後にラジスロー(遺腹王)が産まれたが、ハンガリーでは対オスマン戦を赤子の王では戦えないとしてヤギェウォ家のポーランド王ヴワディスワフ3世を王に選んだ。一方、レオポルト系の分家のフリードリヒ(3世)がラジスローを保護・監禁して自らがドイツ王に選ばれている。

1444年にヴワディスワフ3世が対オスマンのバルナの戦いで戦死するとラジスローはハンガリー王位と後にボヘミア王位も受けたが、1457年に弱冠17歳で未婚のまま死去してしまい、ハンガリー王位はフニャディの子マチアス・コルウスが、ボヘミア王位はフス派のイジー・ス・ポジェブラトがそれぞれ選ばれ、ハプスブルク家には皇帝・ドイツ王が残っただけだった。これが1回目である。

ハプスブルクの結婚戦略(2) - 汝は結婚せよ

次のチャンスは、1477年にブルゴーニュ公シャルル突進公がナンシーで戦死した後に起こった。残された1人娘のマリーがフランスの圧力に対抗するため、数多い求婚者の中からフリードリヒ3世の跡継ぎマクシミリアン(1世)と結婚したことで、ブルゴーニュとネーデルラントの旧ブルゴーニュ家領が入ってきた。王領への回収を目論むフランス王との争いの中で、ブルゴーニュ公領などはフランスに渡したものの豊かなネーデルラント*6はほぼ確保することができた。これが2回目である。

*6 神聖ローマ皇帝位は名前だけで収入が伴わず、むしろ体裁のための出費が増えていたためネーデルラントの獲得は大きく、財政は飛躍的に改善された。

マリーとの間の子にはフィリップ(美王)とマルグリットがおり、1495年に当時、アラゴンとカスティラの連合、レコンキスタの完了、コロンブスの新大陸発見などで上り坂だったスペインのカトリック両王(イザベル、フェルナンド)の長男フアンとマルグリット、次女フアナとフィリップ美王の二重結婚が決まったが、この時点では、フランスを挟む強国であるスペインとハプスブルクの同盟を意味するものでしかなかった。

ところが、フアンが結婚直後の1497年に死去し、その時点でマルグリットは妊娠していたが死産となり、さらにカトリック両王の長女イサベルはポルトガル王と結婚したが、1498年に息子ミゲルの出産後に亡くなり、そのミゲルが1500年に亡くなったため、広大なスペイン(カスティラ、アラゴン、シチリア、ナポリ、新大陸)の推定相続人はフアナ(狂女王)とフィリップ美王となった。3回目は運でジャック・ポットを引き当てたと言える。

1504年にイザベル女王が死去するとカスティラ王位はフアナが継いだ。フェルナンド王はアラゴン王位を他家に渡すのを避けようと新に結婚したが子供は生まれず、一方、フアナ女王とフィリップ美王の間には1500年にカール(5世)、1503年にフェルナンド(1世)が生まれており、1516年にフェルナンド王が亡くなるとスペインはカール5世が継承し、ハプスブルク家がスペインを確保することになった。

ハンガリーとボヘミア王位はヤギェウォ家のウラースロー2世が有していたが、ヤギェウォ家*7はオスマン、ロシア、ドイツ騎士団と対抗する上でハプスブルク家との同盟を望んでおり、ハプスブルク家はかってのラジスロー遺腹王の遺産であるハンガリーとボヘミア王位を狙っていた。そこで、1515年のウィーン会議で、ウラースロー2世の子供ラヨシュ(2世)、アンナとマクシミリアン1世の孫(フィリップ美王の子)マリア、フェルナンド(1世)の二重結婚*8が決まり、1521年に結婚が執り行われた。

*7 ジグムント1世がポーランド=リトアニア王で、ウラースロー2世の弟。
*8 二重結婚には、1.純粋に両家の絆を強める、2.(片方だけが嫁に入るのではなく)両家の関係を公平にする、3.女系による関係を強めることにより、女性相続人となった時に結婚相手に自家が選ばれることを期待するといった意味がある。

1526年にラヨシュ2世がモハーチの戦いで戦死したため、アンナとフェルナンド1世がハンガリーとボヘミア王位を継承した。もっともハンガリーは、そのほとんどがオスマン帝国の支配圏となり、実質的な支配地である王冠領はわずかだったが、将来のハンガリー回復時の権利を得たことに意味があった。これが4回目である。

この時点で神聖ローマ皇帝はカール5世であり、ハプスブルク家はスペイン(+海外領土)、両シチリア、ネーデルラント、オーストリア、ボヘミア、ハンガリー*9を領有する欧州最大の勢力となっていた。

*9 ボヘミア、ハンガリーはフェルナンド1世の所有。

このように結婚政策は多分に運の要素があるが、宝くじは買わなければ当たらず、この場合は買うにも資格が必要であり、力関係に応じて、より確率の高いくじを購入できることを考えれば、運も実力の内と言える。

軍事力があってこそ、その支援を期待して婚姻を求められたり、その圧力で婚姻を強いることができるのであり、政略結婚と戦争は二者択一のものではなく、通常の政略と同じく軍事力の背景があってこそ成立するものであり、決して戦争せずに済んでいるわけではない。

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