バーゼル公会議と公会議主義

バーゼル公会議と公会議主義(1) - エウゲニウス4世

カトリックにおいて教皇至上という考えは、そう古いものではない。全キリスト教徒の代表を主張していても、東方教会はそれを認めなかった(東西教会大分裂)し、西方教会においてすら、カール大帝の戴冠により、その地位を確固としても、元々、選挙で選ばれるローマ教皇はローマ(せいぜいイタリア)の聖職者の代表と言った位置づけだった。

重要な教義は、いずれも公会議で決定されており、東方教会(正教会)ではその伝統が続いている。それが、11世紀のグレゴリー改革により全ての権限が教皇にあると主張され、カノッサの屈辱事件以来、教皇権は高まり、地上における神の代理人を名乗るまでになった。

しかし、アナーニ事件を契機として、アヴィニョンへの移転により教皇の権威は低下し、西方教会大分裂で2人の、そしてピサ会議以降、3人の教皇が並立し、教皇権は落ちる所まで落ちた感がある一方、ピサ会議から公会議の権威が増加していた。

1417年にコンスタンツ公会議において、マルティヌス5世がローマ教皇に選出されて西方教会大分裂は終了したが、公会議が教皇の廃位と新教皇の選出を行ったため公会議派の力が強くなり、教皇と言えども公会議に従うべきとの主張が為されるようになった。

マルティヌス5世は定期的に公会議を開くことを約束させらており、1423年にシエナで公会議を開いているが、教会改革など重要な問題については議論が進まず、フス派やウィクリフ派などを異端として排除するなど簡単で合意を得られ易い問題にだけ対処し、次回は1431年にバーゼル*1で開催することを決議して早々に散会していた。

*1 スイスは既に事実上、神聖ローマ帝国の中で独立的な立場にあり、フランス、ドイツ、イタリアなどより中立的と見なされた。

このため1431年にバーゼル公会議が召集されたが、マルティヌス5世は同年2月に亡くなり、エウゲニウス4世がローマ教皇に選出されていた。

1431年12月からバーゼル公会議は開催されたが、司教や大修道院長の出席は少なく、神学者、参事会代表、修道士など下位の聖職者が多数で、改革的意識が強い公会議派が主導権を握っており、会議の冒頭で教皇権に対して公会議の優位性の宣言を採択した。

この情勢にエウゲニウス4世は、自身の健康状態や高位聖職者の参加が少ないことを理由に会議を解散し、ギリシア正教会などとの東西教会の合同の討議が予定されている時期に合わせて延期し、教皇勢力の強いボローニャで開催することを計ったが、チェザリーニ枢機卿を議長としたバーゼル会議は大反発して拒否し、公会議の決定は教皇の意思を上回るとして会議を継続した。

枢機卿の大半*2も公会議に賛同し、立場の弱い教皇は妥協せざるを得ず、1433年5月に戴冠のためにローマを訪れた皇帝ジギスムントの調停により、1433年12月には解散を撤回しバーゼル公会議を認める教皇教書を発布しなければならなかった。

*2 教皇は選ばれたばかりであり、大部分の枢機卿はそれ以前の教皇によって任命されている。

当時、エウゲニウス4世は世俗的にも困難な立場にあり、ミラノ公フィリッポ・マリア・ビスコンティらが教皇領に侵攻し*3、ローマではコロンナ家*4による反乱が起きており、1434年6月には密かにローマから脱出しなければならなかった。

*3 ベネチア出身のエウゲニウス4世は、ベネチア、フィレンツェと同盟して、ミラノと敵対していた。
*4 前教皇マルティヌス5世の一族で、エウゲニウス4世は就任後、コロンナ一族を攻撃していた。

公会議はフス派への対処で成果を上げており、1433年1月に穏健派のウトラキスト派との停戦が成立し、1434年5月にはウトラキスト派が過激派のターボル派を壊滅させフス戦争は概ね終了した。百年戦争でも公会議主導の「アラスの和」によりフランスとブルゴーニュを和解させている。

これらの成功に勢いづいて、公会議では様々な改革に着手し、教皇の権限を制限し、地方の教会に分散する方策を提起した*5。

*5 ブルージュ国本勅諚など、後にガリカニスムと呼ばれるフランスの宗教政策はこの方針に基づいている。

しかし、この間にエウゲニウス4世も巻き返しを計っており、1434年10月にローマを奪回し、翌年8月には敵対する諸勢力と和解した。1436年8月までに彼の傭兵フランチェスコ・スフォルツァが教皇領を平定し、コロンナ一族などを制圧している。

バーゼル公会議と公会議主義(2) - 東西教会合同と対立教皇フェリックス5世

エウゲニウス4世の切り札は東西教会合同に関する協議だった。

オスマン帝国の攻勢の前に息も絶え絶えのビザンティン帝国は、ローマ教会主導の東西教会合同への反対は相変わらず強かったが、皇帝ヨハネス8世とコンスタンティノープル総主教ヨセフスは、西欧の援助を得る為には合同も止む無しと考え、合同協議の為に正教会の主要人物を連れてイタリアに訪れる意向を示していた。

バーゼル公会議とローマ教皇の両方がビザンティンと交渉を行ったが、協議の地として、公会議は教皇の影響力の弱いバーゼルやアヴィニョン、サヴォアを望んだのに対して、ビザンティン側は船で到着できるイタリア海岸部を望んでおり、また、バーゼル公会議とローマ教皇の関係は議会と国王の関係に似ており、君主であるビザンティン皇帝はローマ教皇との交渉を好ましく感じたようで、1437年9月に教皇の提案するフェラーラでの開催に同意した。

1437年12月に公会議派に好意的だった神聖ローマ皇帝ジギスムントが亡くなったこともあるが、これにより形勢は逆転し始めたようだ*6。1438年1月にフェラーラ会議が開催され、公会議がバーゼルから移動したことが宣言された。これに対してバーゼルの参加者は分裂し、チェザリーニ枢機卿らはフェラーラに移動し、2月にはバーゼルに残った者への破門が宣言された。

*6 第1回十字軍において、ビザンティン帝国からの救援要請があった際には、ローマには対立教皇が居たが、フランスに居たウルバン2世がクレルモン教会議を開いて十字軍勧誘に成功し、形勢を逆転したのと似ている。

これに対して、バーゼル会議*7ではフランスのアレマン枢機卿が議長となってエウゲニウス4世の権限の停止を採択し、1439年6月に教皇を廃位し、11月にサヴォア公アマデウスを教皇に選出した(フェリックス5世)*8。公会議派にとって教皇は形式的な存在で良く、聖職者でないアマデウスなら教義に介入せず、サヴォア公としてバーゼル会議を守るのに適任と判断されたのだろう。

この時点でも、フェリックス5世を支持するのはアラゴンやスイスなど少数だったが、フランスは各国教会への権限委譲と言う点で好意的であり、ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世は中立の立場を取った。

*7 カトリックの公式見解では、この時点で公会議がフェラーラに移動したため、以降、便宜上、バーゼルを単に会議と表現する。
*8 聖職者ではない王侯の一族が教皇となるのは、グレゴリー改革以前では、しばしば有ったが(カノッサへの道 参照)、世俗の王侯が教皇に選出されたのは初めてだろう。

1438年4月にビザンティン皇帝とギリシア教会一行がフェラーラに到着し合同協議が開始され、東西教会の教義の違い(ローマ教皇の首位、煉獄の存在、フィリオクェ問題*9)について討議されたが、疫病や資金難により、コジモ・デ・メディチの資金援助の提案を受けて、1439年にフィレンツェに移った*10。

*9 聖霊が神からか、神と子(キリスト)から来るかという神学的問題。
*10 この前後にギリシアからの亡命者が増加したのが、フィレンツェがルネサンスの中心となった理由の1つである。

フィリオクェ問題で難航したが、1439年7月には合同教令「レテントゥル・チェリ」が1人を除くギリシア教会一行の合意を得て締結された。しかし数日後に総主教ヨセフスが死去すると、ギリシアの聖職者達は、批准にはギリシアの全教会の合意が必要だと主張した。この教令はギリシアでは聖職者、民衆の双方から拒絶され、皇帝の強い推進にも係わらず実行は進まなかった。

しかし、ともかく合意は締結され一応の成果は得られ、会議にはエジプトのコプト派、エチオピア*11、アルメニア、モスクワなどからも使節団が到着し賑わった。

*11 プレスター・ジョンの国でないかと思われ、大航海時代の動機ともなった謎のキリスト教国だったが、この時にどのような人々かが西欧で認識されたようだ。

エウゲニウス4世の主導権は確立し、1441年4月には教皇権の優位を宣言する教皇教書を出し、西方教会大分裂以前の教皇権を回復した形となった*12。1445年には他の幾つかの東方教会との合同を果たしてフィレンツェ公会議は終了し、1447年には皇帝フリードリヒ3世との交渉でバーゼル会議をバーゼルから追放することに成功した。

*12 しかし世俗君主への大きな妥協を強いられ、この後、教皇の影響力はイタリアに留まることになる。

既に世俗諸侯の支持を失い脱落者が相次いでいたバーゼル会議には抗する力がなく、1448年にサヴォア公領のローザンヌに移ったが、1447年にエウゲニウス4世が死去しニコラウス5世に代わっていたため妥協が成立し、1449年4月にフェリックス5世が退位し、バーゼル会議はニコラウス5世を教皇に選出して解散した*13。

*13 バーゼル会議の参加者の破門は取り消され、フェリックス5世も罪を問われることはなく、表面的には円満解決を装った。

結果的に公会議派の力は大きく減退し、1512年からの第5ラテラン公会議で公会議主義は否定された。しかし、教皇権もまた世俗君主への影響力を失い、その支配はイタリアに限定され、また、内部からの教会改革は頓挫し、16世紀の宗教改革に繋がることになった。

東西教会合同はギリシア教会には受け入れられず、西欧からの援助も少ないまま*14、1453年にオスマン帝国によりコンスタンティノープルが陥落し、ビザンティン帝国が消滅して有耶無耶となった。しかし、イタリアでは合同会議の前後からギリシアからの亡命者が増加し、西欧で失われていたギリシア・ローマの文献と知識をもたらしたため、ルネサンスがイタリアで花咲くことになった。ニコラウス5世は最初のルネサンス教皇と呼ばれる。

*14 1444年にヴァルナ十字軍がオスマン帝国と戦っており、援助が無かった訳ではないが、大敗したため成果は無かった。

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