シクストゥス4世とパッツィの陰謀

シクストゥス4世とパッツィの陰謀(1) - ネポティズム

以前に教皇シクストゥス4世は小型のアレクサンデル6世だと書いたが*1、庶子や甥が領地を得る為に、露骨な干渉を始めたのはシクストゥス4世が最初で、その下で副教皇だったロドリーゴ・ボルジア枢機卿(アレクサンデル6世)がそれを学んで見習い、より巧妙かつ大胆に行ったのである。

*1 カテリーナ・スフォルツア - フォルリの女虎 参照

聖職売買(シモニア)や親族登用(ネポティズム)はアヴィニョン教皇の頃から存在したが、若年の甥(ネポス)*2を教会の最高幹部である枢機卿に登用する露骨な親族登用はルネサンス教皇になってからである。教皇というのは本来はモラルの拠り所であり、平和の調停者であるはずだが、ルネサンス教皇は最もモラルを欠いた、しばしば平和を乱す存在だった。

*2 一世代下の男子親族一般を指し、必ずしも兄弟姉妹の子とは限らない。同様に同世代親族一般が従兄弟で、上の世代が叔父である。

しかしニコラス5世、カリストゥス3世、ピウス2世までは、オスマン帝国の脅威もあり、十字軍を起こすことに熱心で、教皇はローディの和を結びイタリアの平和を望んだが、ピウス2世の死で十字軍は立ち消えになり、ベネチアアルバニアハンガリーが対オスマン戦を継続していたものの、シクストゥス4世が教皇となった1471年には勝利の見込みは無くなっており、教皇の関心も薄れていた。

シクストゥス4世のローヴェレ家は、権門ではなく比較的貧しい家で、ネポティズムではなくフランシスコ会総長として枢機卿になっており、世俗から離れた敬虔な人物と見られていたが、教皇になった後には人一倍、親族登用に励み、親族から6人の枢機卿を出している*3。

*3 ネポティズムで登用された枢機卿と比べると頼れる支持者が少なく、周囲を親族で固める必要を感じたのだろう。ローヴェレ家と妹の系統であるリアリオ家が親族登用された。

さらに単に教会における地位を親族に与えるだけでなく、世俗の領土を与える為に、イタリア諸国に露骨な圧力をかけ、騒乱をけしかけ、平和の調停者どころか戦乱を起こす最大の要因となっていた。甥のジョバンニ・デラ・ローヴェレ*4をウルビーノ公の娘と結婚させてシニガリア等を得させ、甥(たぶん庶子)*5のジロラモ・リアリオに、ミラノ公の庶子カテリーナ・スフォルツァと結婚させることでイモラを得たが、さらに身内の領土の拡大を狙っていた。

*4 ユリウス2世の兄弟で、その子孫がウルビーノ公を継承する
*5 教皇が公然と庶子の存在を認めたのは次のイノケンティウス8世からで、ジロラモも公式には甥でリアリオ家の嫡出子である。

パッツィの陰謀の1478年においては、イタリアはフィレンツェ・ミラノ・ベネチアと教皇国・ナポリの陣営に分かれており、北部3カ国の同盟の要となるフィレンツェのメディチ家(大ロレンツォ、ジュリアーノ)は教皇にとって目障りな存在になっていた。

シクストゥス4世とパッツィの陰謀(2) - パッツィの陰謀

ローディの平和メディチ家が主導しており、コジモや大ロレンツォの勢力均衡政策が曲がりなりにもイタリアの平和を維持していた。

Italy_1494_v2.pngミラノベネチアは伝統的にブレシア、ベローナ等のロンバルディアの都市を巡って争っており、北部三国の同盟を繋いでいるのは、フランチェスコ・スフォルツァの頃からのメディチ家とスフォルツァ家の誼とロンバルディア戦争の頃からのフィレンツェとベネチアの遠交近攻関係であり*6、メディチ家を失脚させれば、三国の同盟が崩壊するのは必至だった。

*6 図を見ると明確だが、フィレンツェはベネチアやミラノとは隣接しておらず、直接の領土争いがなかった。

メディチ家勢力切り崩しの一環として、フィレンツェの支配下にあったピサの大司教フィリッポ・デ・メディチが死去した際に、反メディチ派のサルヴィアーティ家のフランチェスコ*7を任命したが、大ロレンツォは猛反対して新大司教のピサへの入国を認めず諍いとなっていた。

*7 フィレンツェの有力家系だが、母はリアリオ家で、シクストゥス4世の親族と言える。

また、シクストゥス4世はイモラを得る際にパッツィ銀行から融資を受け、見返りにパッツィ一族に教皇領内のミョウバンの専売権と教皇庁の資金を扱わせた為、フィレンツェ自身がイモラを狙っていたこともあり、大ロレンツォは不満を持っていた。

メディチ銀行と並ぶパッツィ銀行を運営するパッツィ一族は元々はフィレンツェの有力家系で、長兄のグリエルモは大ロレンツォの妹ビアンカと結婚していたが、メディチ家はパッツィ一族を警戒して市政に関わらせなかったため不満を持っており、さらに次男のフランチェスコや四男のジョバンニは様々な諍いによりメディチ家に恨みを抱いていた。

フランチェスコがジロラモ・リアリオと親しかった為、フィレンツェからメディチ家を排斥し、ジロラモ・リアリオと反メディチ派が権力を掌握することを計画し、その為には大ロレンツォとジュリアーノのメディチ本家の二人を同時に暗殺*8する必要があると判断した。

*8 「暴君の殺害」は正当な行為との主張はコンスタンツ公会議でも討議され、ギリシア・ローマの頃から一定の説得力を持っていた。数年前の1476年にミラノ公ガレアッツォ・マリア・スフォルツァが暗殺されており、それを真似たと言われる。

計画はシクストゥス4世の暗黙の了解*9を得ており、慎重だったパッツィ家の当主のヤコポ、ピサ大司教、傭兵隊長のジョバンニ・バチスタ・モンテセコなどを共謀者に引き込んでいる。

*9 暗殺計画については聞かないふりをしたが、メディチ家の排除には大いに賛同した。

ピサの大学で学んでいたラファエロ・リアリオ枢機卿*10をフィレンツェに訪問させることにし、その随員として暗殺の実行者らがフィレンツェに入り、大ロレンツォとジュリアーノを祝宴に呼んで暗殺しようとしたが、ジュリアーノが欠席したため見送られた。

*10 シクストゥス4世の甥の一人。

何度かの計画の失敗に苛立った一行は、1478年4月26日に大聖堂でリアリオ枢機卿が行うミサであれば、両人が確実に出席するとして教会での暗殺*11を計画した。

*11 中世盛期と比べると少ないとは言え心理的抵抗は大きく、モンテセコは暗殺の実行を断り、急遽、聖職者の二人が代わることになり失敗に繋がった。聖職者の方が教会での暗殺に抵抗がないのは皮肉である。

当日、ジュリアーノが確実に出席するよう、彼の暗殺を担当するフランチェスコ・デ・パッツィとベルナルド・バンディーニが迎えに行き大聖堂まで同道し*12、ミサが始まると二人はジュリアーノを刺し殺したが、フランチェスコは勢い余って自分の太股も傷つけてしまい、神父のステファーノとアントニオ・ダ・ヴォルテラは不慣れな為、大ロレンツォにいくつかの軽傷を与えたが逃げられてしまい、二人はその場で切り殺された。

*12 彼らは親しげに世間話をしながら、ジュリアーノが鎖帷子などを着込んでいないか確認しており、暗殺直前までは冷静だった。

ピサ大司教は、共謀者達やパッツィに協力するペルージャの亡命者の一団と共に市政庁を占拠する予定で、正義の旗手と面会して捕えたが、事態を察知した市政庁のメンバーに鎮圧され、ピサ大司教と二人の共謀者は窓から吊るされた。

ベルナルド・バンディーニは事は失敗したと判断して逃亡し、フランチェスコは市民にメディチ家に対する蜂起を呼びかける予定だったが、足を負傷した為、家に戻った。老年ながらヤコポが広場に行って民衆に呼びかけたが応える者はおらず、そのままロマーニャに逃亡し、内外から呼応する為に、パッツィの同調者や教皇の手の者達がフィレンツェに向かっていたが、彼らも失敗を聞いて引き上げた。

大ロレンツォはすぐに指揮を執り始め、ピサ大司教の一行は全て死亡または逮捕された。人々はメディチの名を叫びながら街路を練り歩き、パッツィ一味と思われる者の屋敷を襲い、フランチェスコを捕らえて、ピサ大司教の横に吊るした。

グリエルモは事件に関係していないとして助けられたが(後に追放)、他のパッツィ一族は全て逮捕され監禁された。ヤコポは捕らえれて処刑され、その死体は市中を引き回された後、アルノ川に捨てられている。後にモンテセコ*13やベルナルド・バンディーニ*14も捕らえられて処刑されている。

*13 モンテセコの告白により事件の全容が明らかになった。
*14 イスタンブールまで逃げたバンディーニも捕らえられた。彼の吊るされた図がレオナルド・ダ・ヴィンチのスケッチとして残っている。

シクストゥス4世とパッツィの陰謀(3) - パッツィ戦争

教皇シクストゥス4世は事件との関わりを否定したが、ピサ大司教の処刑を咎めて、大ロレンツォを破門、フィレンツェを聖務停止とし、ナポリ軍(カラブリア公・王太子アルフォンソ)と教皇軍(ウルビーノ公フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ)はシエナを根城にフィレンツェ領に侵攻した。

フィレンツェは大ロレンツォの演説で一致して戦うことを決定したが、ベネチアはオスマン戦を理由に支援を断り、ミラノは幼年のジャン・ガレアッツォの摂政権を巡って母ボナと叔父のルドヴィーコ(イル・モーロ)が争っており、さらにジェノバの反乱*15が起きて、介入する余裕が無かった。

*15 当時、ミラノの支配下にあったが、ナポリの指嗾もあり反乱した。

フィレンツェはコンドッティエーレとしてマントヴァ侯とフェラーラ侯を雇い、さらにベネチアと契約していたカルロ・ブラッチョ*16を借り受けて反撃に転じ、教皇軍を打ち破り失地を回復したが、喜びに沸いたのもつかの間で、カルロが死去し、マントヴァ侯とフェラーラ侯の兵が争いフェラーラ侯が離脱してしまった。

*16 高名な傭兵隊長ブラッチョ・ダ・モントーネの息子

再びカラブリア公は攻勢に出て、弱体化したフィレンツェ軍を撃破してフィレンツェ領内に入ったが、冬を迎え3ヶ月の休戦を結んだ。戦況の悪化と戦費の増大により、フィレンツェでは厭戦ムードが漂い、ここで大ロレンツォは果敢な決断をした。

ベネチア、ミラノが当てにならなければ、教皇かナポリのどちらかと和解する必要があるが、教皇は比較的短期間で交代する可能性が高い上に信用できないのに対して、ナポリを説得することは可能と判断し、単身、ナポリに出向いて交渉することを選んだ。

1478年12月にフィレンツェの特命全権大使としてナポリに行き、教皇が信用できないこと、フィレンツェ、ミラノと同盟することがナポリの利益であり、イタリアの安定に繋がると説いた。ナポリ王フェランテはその整然たる理論と大ロレンツォの人格に感銘したが*17、様々な思惑もあり*18、歓待しながらも引き留めて情勢を見守っていたが、1479年3月に同盟を結んで解放した。

*17 大ロレンツォは陰謀・裏切りの渦巻くルネサンスの標準から見ると、誠実な人物であり、信用するに足ると判断したのだろう。
*18 暗殺または幽閉するよう勧める者もおり、情勢を十分検討する必要があった。

市民は歓喜して大ロレンツォを迎えたが、教皇はナポリ王の裏切りに激怒し、また長期の戦争*19を終えてオスマン帝国と和睦したベネチアはイタリア本土での領土拡大を狙っており、フィレンツェ、ミラノ、ナポリによる平和体制を望まず、教皇に接近した。和睦し同盟したとは言え、カラブリア公はフィレンツェ領土を占領したままシエナに留まっており、新たな戦争が起こることは必至に思えた。

*19 ベネチアの憂鬱 参照

しかし、1480年にオスマン軍が南イタリア(ナポリ王国)のオトラントを占領したことにより状況は一変した。教皇は驚愕してイタリア各国に協力を呼びかけ、カラブリア公は対応の為にナポリに戻らなければならなかった。フィレンツェは聖務停止を解かれ、占領された土地も回復し喜悦した。

シクストゥス4世とパッツィの陰謀(4) - 塩戦争

まもなく、1481年5月にオスマン帝国のメフメト2世が亡くなり、9月にオトラントのオスマン軍は降伏した。

再び、イタリアは緊張状態に戻り、1482年に塩の買取を巡るベネチアとフェラーラの争いから、イタリア全土を巻き込んだ塩戦争が始まる。

イモラの領主であるジロラモ・リアリオ*20はフェラーラ領を得ることを望んでベネチアに協力し、一方、フェラーラ侯エルコーレ・デステはナポリ王フェランテの娘婿であり、ナポリ、ミラノ、フィレンツェはフェラーラ側に付いた。

*20 フィレンツェを取り損なったが、1480年にフォルリを与えられている。

ナポリ王フェランテはカラブリア公(王太子アルフォンソ)をフェラーラに送ろうとして教皇領の通行許可を求めたが、教皇はにべも無く拒否した為、カラブリア公はコロンナ一族と共に教皇領を荒らし廻り、一方、フィレンツェはニコロ・ヴィッテリを支援し、チッタ・ディ・カステロを回復させている。

教皇はリミニのロベルト・マラテスタを雇い、ロベルトはカラブリア公を打ち破ったが、まもなく事故死し、教皇軍はチッタ・ディ・カステロを奪えず、さらにリミニの没収を試みたがフィレンツェに妨害された。

ベネチアはフェラーラ領を席巻しフェラーラを包囲したが、ミラノは契約していたウルビーノ公フェデリーコ・モンテフェルトロが死去した為、援軍を送れず、フェラーラの陥落は時間の問題となった。

この情勢に危機感を感じたナポリとフィレンツェは皇帝や複数の枢機卿を抱きこんで教皇に和平を迫り、教皇もベネチアの一人勝ちを恐れて和睦に同意した*21。

*21 大ロレンツォが「勝てば教皇と分け合うが、負けた時は一人である」とナポリ王に説いたように、教皇が信用できないことが実証されている。

ベネチアが講和を拒否すると、教皇は聖務停止で応じ、ベネチアは全イタリアを敵に回すことになった*22。ロレーヌ公等を雇って対抗したが連合軍に敗北し、フェラーラの包囲は解かれ、ロンバルディアのベネチア領は略奪を受け、ベネチアの敗北は必至に思えた。

*22 五大国と言ってもベネチアは力の一部をイタリアに割いているだけであり、本気になれば全イタリアに匹敵する力を持つことを改めて示した形となった。

ところが、ここでカラブリア公とミラノ摂政イル・モーロとも親しかったマントヴァ侯が死去し、連合軍に亀裂が入る。ミラノ公ジャン・ガレアッツオも14歳と既に成人し、カラブリア公の娘イザベラと婚約が決まっており、カラブリア公が権限委譲を要求した為、これを警戒したイル・モーロは1484年にベネチアと単独和睦してしまった。ベネチアは何も失わず*23、他の同盟国は怒ったが、彼ら自身も資金が尽きており和睦に参加した。

自分の承諾無しに講和が行われたことにシクストゥス4世は怒り、まもなく死去した*24。次の教皇は貪欲だが無能なイノケンティウス8世であり、1492年の大ロレンツォの死、アレクサンデル6世の即位、そしてシャルル8世の侵攻まで、イタリアには小康が訪れる。

*23 それどころかフェラーラから奪った2つの都市も維持した。
*24 平和を乱す教皇は、平和が訪れたことに失望して亡くなったと揶揄された。

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