預言者 サヴォナローラ

預言者 サヴォナローラ(1) - ルネサンスのモラリスト

15世紀末に、ルネサンスの中心地、花の都フィレンツェで突然、修道士サヴォナローラが実質的な権力者となったのは一見、奇妙に思える。

ルネサンスは、多神教色の強いローマ・ギリシアの文化を復興しており、その世俗性や人文主義的、享楽的性格は、中世のカトリック社会とは大きく異なる特徴を持つ。

しかし、西欧がキリスト教的モラルで拘束されていた中で、イタリアは突出して人間の本能に忠実な、近代以上にモラルの緩い世界になっており、教皇庁にまで蔓延した金権主義や性道徳の乱れは、特に宗教的敬虔でない人々も眉をひそめるレベルになっていた。

その為、モラリストによる反動の余地は十分あり、サヴォナローラはキリスト教的狂信者というより、モラリストの預言者だったようだ。

ジロラモ・サヴォナローラ(1452 - 1498)はルネサンスの宮廷文化の都フェラーラの貴族の家*1に生まれながら、幼い時から世俗的な虚栄を嫌い、家族の期待もあって当初は医師の道を志したが、23歳の時に世俗を捨て*2、托鉢修道会ドミニコ会に入った。

*1 祖父が著名な医師として財をなした人で、ジロラモも宮廷人となるか、医師になることが期待されていた。
*2 失恋した為とも言われるが、それが事実としても、直接的なキッカケに過ぎないだろう。「世界の荒廃」、「教会の荒廃」と言った詩を作っており、この世の虚飾を嫌い、教会の改革を望んでいたようである。

ドミニコ会では当初、研究生活を行っていたが、1482年からフィレンツェのサン・マルコ修道院に派遣され教育と説教を行ったが、風采が上がらず、フェラーラ訛りが分かりにくかったこともあり、この時は特に話題にはならなかった。

その後、1485年から巡回説教師として各地で説教を行い、この頃から神の啓示を受けたとして、神の罰を預言し、悔い改めることを説き始めるようになり、説教の技術も向上して、彼が現状のモラルの欠如を批判し、市政や修道院の改革を訴えると、人々は熱狂するようになった。

人文主義哲学者として著名だったピーコ・デラ・ミランドラは当時、フィレンツェでメディチ家の大ロレンツォ(イル・マニフィーコ)の庇護を受けていたが、サヴォナローラの説教に感銘を受け、彼をサン・マルコ修道院のしかるべき地位に就けることを大ロレンツォに推薦したため、1490年にフィレンツェに呼び戻された。

サヴォナローラは、説教の中で、僭主/暴君*3、腐敗した聖職者を非難し、神の怒りと来るべき罰を預言し悔い改めるよう説き、今回はかなりの評判となり、大勢の人を集めた。

*3 彼は共和主義者だったようだ。

1491年には、有名な次の三つの預言をしている。

・我らの生きている内に、教会は革新れる
・その前に神の恐ろしい懲罰がイタリアを襲う
・それは、そう遠からず起きるだろう

腐敗した社会が神の怒りにより浄化され、正しい者のみが残るとの預言は歴史上、数限り無く存在したが、この時は1492年に、まず大ロレンツォが亡くなり、偉大な指導者を失ったフィレンツェでは、この預言が当たり始めていると感じる人が増加したようである。

また、同年の教皇選挙では、相変わらずとは言え、従来以上に激しい買収合戦が繰り広げられ、選出されたボルジア家のアレクサンデル6世は、早速、聖職売買(シモニア)、親族登用(ネポティズム)を盛んに開始していた。

大ロレンツォが亡くなった1492年頃から、サヴォナローラは「主の剣が間も無く地上に振り下ろされる」、「キュロス王*4が山を越えてやってきて、教会の革新を始めるだろう」*5と言った予言を行うようになった。

*4 ペルシアの大王で、ユダヤ人のバビロン捕囚を終わらせたことで、一神教徒の崇敬を得ている。
*5 他の預言は単なる常套句だが、これは多少、具体的であり、フランス情勢に詳しい支持者から示唆を受けていたのかもしれない。

当然、馬鹿げていると批判的な人も多かったが、彼の説教に感銘を受けすすり泣いた人々はピアニョーニ(泣く人)と呼ばれ、彼を支持する人々の呼称となった*6。

*6 ピアニョーニにはボッティチェリも居たそうで、やはり芸術家は感受性が高いようである。ちなみに、当時、円熟期のレオナルド・ダ・ヴィンチはミラノにおり、若きミケランジェロは「虚栄の焼却」で自分の作品を焼いたとも言われるが、1496年にローマに去っており、心酔はしてないようだ。

預言者 サヴォナローラ(2) - シャルル8世のイタリア遠征

1494年からのフランス王シャルル8世(1470 - 1498)のイタリア遠征は決して予想できなかったものではない。フランス王家は断絶したアンジュー公家(ヴァロワ・アンジュー家)のナポリ王位主張を継承しており、既に、1489年にナポリ王フェランテと対立した教皇イノケンティウス8世から、ナポリ王位を提示されていた。

しかし、この時点では、フランスはハプスブルク家とのブルゴーニュ公国(ブルゴーニュ、ネーデルラント)の継承争い、ブルターニュの継承問題などを抱えており、さらに薔薇戦争を終えたイングランドは大陸の失地回復を目指しており*7、姉のアンヌの摂政を受け、若年の上、病弱で少し頭が弱いと見られていたシャルル8世が本格的なイタリア遠征を行えるかには疑問符が付いていた。

*7 百年戦争は別に終わってはいない。(百年戦争とは何だったのか 参照)

しかし、1491年末にブルターニュの女性相続人アンヌと結婚し、親政を始めたシャルル8世は、先祖の地であるナポリ王国の回復*8、アヴィニョン以来となる教皇庁への影響力の回復、さらには正義の騎士として十字軍*9を率いることを本気で考えるようになり、国際情勢の変化にも助けられ、1492年の終わりから、相継いでスペイン、イングランド、そしてハプスブルク家との協定・和睦を成立させた。

*8 シャルル・ダンジューやヴァロワ・アンジュー家の権利を考えるとアラゴン王よりは正統性は高いと言える。
*9 一般的には、十字軍をナポリ遠征の理由としたのは口実に過ぎないと見られがちだが、シャルル8世の性格から考えると半分本気だったと思われる。

一方、イタリアでは反ボルジアのローヴェレ枢機卿(後の教皇ユリウス2世)がフランスに亡命し、教皇の横暴・不正を訴えてシャルル8世の出馬を願っており、ミラノでは幼年だった甥のミラノ公ジャン・ガレアッツォの摂政としてルドヴィーコ(イル・モーロ)・スフォルツァが実権を握っていたが、ナポリ王フェランテの孫娘でジャン・ガレアッツォの妻イザベラは夫の権力奪回を実家に頼んでおり、ナポリの侵攻を恐れたイル・モーロは、教皇選挙で協力したアレクサンデル6世の干渉に期待したが*10、ナポリ王フェランテが亡くなると教皇はナポリ王とも接近したため*11、フランス王にナポリ侵攻を要請することになった。

*10 一族のペーザロ伯ジョバンニが、アレクサンデル6世の庶子ルクレッツィアと結婚していた。
*11 教皇はナポリ王国の宗主であるため、新王アルフォンソは継承の為に教皇に多大な譲歩をした。その一環として、庶子サンチャを教皇の庶子ホーフレと結婚させた。

ミラノの協力が得られれば、イタリアへの陸路は開けており*12、シャルル8世は1494年8月に満を持してイタリア侵攻に踏み出した。

*12 先陣の仕事は、部隊の泊まる宿にチョークで印を付けるだけであり、「イタリアはチョーク一本で征服された」と揶揄された。

フランスの侵攻に対するフィレンツェの立場は微妙だった。元々、親フランスなのだが、パッツィ戦争の際に大ロレンツォがナポリ王フェランテと和睦して以降、同盟関係にあり*13、優柔不断なピエロ・デ・メディチ*14はフランス王の支援要請に応じなかったため、トスカナはフランス軍に蹂躙された挙句、不利な条件で屈服することになった。

*13 基本的に全方位外交の為、敵対する勢力の片方の支援は躊躇することになる。
*14 大ロレンツォの嫡男で跡を継いだが、柔弱で人望がなく、愚昧なピエロとも仇名された。

人々はピエロの不手際に怒り、また、シャルル8世の遠征とトスカナへの災厄は、サヴォナローラの預言が的中したと感じさせ、民衆は暴動を起こしてメディチ家を追放し、サヴォナローラにシャルル8世への取り成しを頼んだ。

シャルル8世は、この時点では教皇アレクサンデル6世の廃位も考えており、自分を宗教的英雄と見なす教皇に批判的な修道士に好意を持ったのは当然で、フィレンツェへの攻撃を止め、ローマに向けて進撃を再開した。

フィレンツェでは共和制が復活し、サヴォナローラは神の啓示を受けた救国の預言者として厳然たる影響力を持つことになった。修道士であるサヴォナローラ自身は市民ではないため公職に就くことはなかったが、彼の支持勢力は修道士党(フラテスキ)と呼ばれ、市政の主導権を握った。

預言者 サヴォナローラ(3) - 虚栄の焼却

サヴォナローラはフィレンツェを新エルサレムと呼び、宗教改革の中心として、聖界、俗界、両面においてローマに代わるイタリアの中心(へそ)*15となり、街は繁栄して豊かになると預言しており、市民の多くは厳格な宗教的生活を望んだ訳ではなく、世俗的な繁栄を期待したと思われる。

*15 サヴォナローラは「フィレンツェはイタリアの中心(へそ)」という表現を好んだ。

ところが、シャルル8世が簡単に教皇を屈服させナポリ王国を征服した為、不安を感じたベネチアミラノは教皇や他の中小国と共に神聖同盟を結成し、1495年にシャルル8世はフランスに追い返される形になり*16、同盟に加わらなかったフィレンツェは孤立し、教皇アレクサンデル6世は教会への批判を繰り返すサヴォナローラをローマに召還し、拒否されると説教することを禁じた*17。

*16 神聖同盟に退路を脅かされることを恐れてナポリから戻り、同盟軍とのフォルノヴォの戦いも負けた訳ではなかったが、略奪品を捨てて撤退しなければならなかった。
*17 アレクサンデル6世はサヴォナローラの主張を児戯に等しいと軽視していたが、フィレンツェが神聖同盟に参加しなかったのを許さなかった。

このような情勢において、フィレンツェでは修道士党(フラテスキ)が相変わらず多数を占めていたが、メディチ家支持の陰険党(ビージ)や世俗的な共和派の憤慨党(アラヴィアーティ)の勢力が拡大し始めた。また、コンパニャッチと呼ばれる裕福な若者中心のならず者グループがピアニョーニを挑発して治安を乱していた。

サヴォナローラは数ヶ月間、説教を控えていたが、影響力の低下を恐れ、一層の激しさで教会批判とモラルの向上を訴えた。恐らく、モラルの欠如した教皇に対する自分の正当性を強調する為に、モラルに反する物品の所有を禁止する法を制定させ*18、支持者(ピアニョーニ)*19を引き連れて「虚栄の焼却」として、贅沢品、非宗教的な美術品、書籍などを火で燃やした*20。

*18 法自体は、明確に性道徳等に反する物等を想定していたと思われるが、支持者が拡大解釈して、非宗教的な物を全て対象として、貴重な美術品や文献を燃やしてしまった。
*19 「虚栄の焼却」に参加したのは、感受性の強い少年、少女達が多く、文化大革命などと同様の興奮状態だったのかもしれない。
*20 これは多分、後世において最も非難されるサヴォナローラの所業だが、当時においても、モラルの回復には賛成していた穏健的で理性的な市民の反感を買うことになった。

こうした状態が続いた為、教皇は1497年5月にサヴォナローラを破門し、フィレンツェを聖務停止とした。シャルル8世の再侵攻は無く、フィレンツェは栄光に包まれるどころか商業にも支障が出てきて、急速に反対派の勢力が強まり、市政当局は1498年3月にサヴォナローラが説教することを禁じた。

サヴォナローラは切り札として、シャルル8世を始めとする諸国の君主・実力者に公会議の召集を呼びかけたが、奇しくもこの頃、シャルル8世は亡くなっており、耳を貸す者はいなかったと思われる。

サヴォナローラは自分の神聖を示す為に奇跡を起こすことを示唆しており、4月にフランシスコ会*21の修道士が火による神明裁判でサヴォナローラが本当に神の言葉を受けたのかを明らかにしたいと挑戦し、これをサヴォナローラの右腕だったドメニコ修道士が代わりに受けてしまい、4月7日に実施されることになった*22。

*21 同じく托鉢修道会であるドミニコ会とはライバルである。
*22 サヴォナローラはペテン師とまでは言えないが、ある程度、分かってやっており、受けなかったと思われる。ドメニコ修道士は狂信者だったのか、あるいは拒否するのは不味いとみて、自分が有耶無耶に終わらせることで、サヴォナローラに傷が付かないように考えたのかもしれない。

多くの市民が広場に集まり、この神明裁判で神が何らかの干渉をするか期待して見守ったが、両者が様々な条件を主張して中々実行せず、半日以上待たされた挙句、雨が振り出して中止となったため、怒った群集はサヴォナローラが偽の預言者だったとして暴動を起こし、サヴォナローラとその両腕だったドメニコ、シルベストロ・マルフィ修道士が逮捕された。

拷問による取調べにより、サヴォナローラは預言や啓示が虚偽だったと告白し、異端者、分裂(シスマ)主義者として3人とも死刑が宣告された。絞首刑の後に火で燃やされ、支持者により聖遺物にされないよう灰はアルノ川に流された。

ピアニョーニやドミニコ会は彼の死を殉教として聖人と見なし、修道士党は1512年にメディチ家が復帰するまで一定の影響力を持っていた。当時の教皇や教会を批判した為、後にルターは彼を賞賛し、フランスでは彼の著作はユグノー派から評価され、宗教改革の先駆者と呼ばれることもあるが、彼の主張の根本はモラルの粛正で、11世紀のグレゴリウス7世らが行ったグレゴリー改革と変わらず、どちらかと言うとカトリックの対抗宗教改革の方が近い。

サヴォナローラは決して狂信者ではなく、またルネサンスに生まれ育ったフィレンツェ市民が急に狂信的な信奉者になったわけでもなく、サヴォナローラの支持者の大部分は、モラルの低下を嘆く穏健的な小市民だった。ピアニョーニは数が多いように見えても市民の一部に過ぎず、シャルル8世との友好関係から世俗的な利益を期待した人々が加わって修道士党を構成したのである。

状況が険悪になるにつれ、より過激なグループが急進的な行動を起こし、穏健派は気持ちは離れながらも急進派の勢いがある間はそれに従うのは、文革やフランス革命などでも見られた現象であり、「虚栄の焼却」などは一部の熱狂者のみの行動で、大多数の市民の支持を受けたものではないだろう。

フィレンツェは相変わらず、「痛い苦しいと寝返りをうち、それをベッドのせいにする我儘な病人」だったようだ*23。

*23 コーラ革命 in ローマ 参照

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