フィレンツェの権力闘争とチョンピの乱

フィレンツェの権力闘争とチョンピの乱(1) - ゲルフ対ギベリン

フィレンツェと言えばルネサンスとメディチ家であるが、同家が政権を取るのは15世紀前半で他のイタリア都市の僭主と比べると案外新しい。

現代では民主主義は良い制度であるとされ、弁証論的にも絶対君主制から進歩した制度と見られるが、おそらく人が集団生活を始めて最初に採用される体制で、むしろ原始的な制度であり、健全に維持するにはかなりの条件が必要である*1。

*1 米国はほとんど宗教的に民主主義を信奉しているが、民度の低い国への押し付けは、国の崩壊やイスラム原理主義を招いているだけのように見える。

イタリア五大国で記述したように北イタリアでは、12世紀以来、ゲルフ対ギベリン(教皇派対皇帝派)の絶え間ない党派闘争が続いており、他のイタリア諸都市が14世紀に僭主を立て始めたことを思えば、政争の激しかったフィレンツェで比較的民主的な共和制が15世紀まで続いたのは、豊かな経済力により混乱にも耐えられる体力が有った為だろう。

しかし、15世紀に入るとイタリアは五大国に収束し始め、それらの中では最弱の一つ*2だったフィレンツェには内紛する余裕が無くなり、メディチ銀行によりフィレンツェ外にも影響力を持つメディチ家による安定を求めたのだろう。

*2 軍事的には教皇国と並んで最弱であるが、教皇国は外交面では非常に強力である。

共和制になってからのフィレンツェは、ダンテの言によると「痛い苦しいと寝返りをうち、それをベッドのせいにする我儘な病人」のように政権を替えてきた。

ゲルフ対ギベリン等と称されても、13世紀末にゲルフが勝利すれば、白派と黒派が争い、さらに貴族と都市市民が争った*3ように、基本は市政における党派の権力闘争だった。

フィレンツェの市政参事会の参事の任期は2ヶ月で、30歳以上のギルドメンバーの中からランダムにくじ引きで選ばれるため、ベネチアの終身制のドージェ(元首)と違い、個人に権力が集中しない仕組みであるが、代わりに党派の形成を促進した*4。

*3 貴族には皇帝派が多く、対抗上、都市市民は教皇派が多いため、これもゲルフ対ギベリンと呼ばれたが。
*4 参事は2ヶ月で交代しても、党派の領袖は党派を通して影響力を維持することができた。

貴族層が排除された後は、有力な都市市民のアルビッツィ家とリッツィ家が争った*5が、アルビッツィ派が上中層市民を支持基盤にするのに対してリッツィ派は中下層市民・労働者*6に支持されていた。

*5 都市市民主体のゲルフが政権を得た後にアルビッツィが主導権を握り、しばしばリッツィ派をギベリンとして公職追放にした為、アルビッツィ派がゲルフと呼ばれた。
*6 1348年~50年の黒死病の災害などによる人口減少・人手不足により、下層民・労働者の立場は強くなっていた。

1375年から八聖人戦争*7が始まるとリッツィ派が主導権を握った。メディチ家は13世紀に既に有力な家系になっていたが、市政の中心に登場するのはこの頃で、サルベストロ・デ・メディチはベネデット・デリ・アルベルティ、ジョルジョ・スカーリ、トンマーゾ・ストロッツィらと共にリッツィ派の有力者となっていた。

*7 八聖人とは戦争の為の八人委員会のメンバーを指し、カトリックの聖人とは関係ない。彼らは教皇により破門され、フィレンツェは聖務停止となっていたが、自分達こそ聖なる者であるという主張か、あるいは皮肉として表現したものだろう。

フィレンツェの権力闘争とチョンピの乱(2) - 八聖人戦争

ローマ教皇は1308年以来、アヴィニョンに居住していた(アヴィニョン教皇)が、百年戦争の悪化でアヴィニョンが略奪傭兵団に脅かされたこととイタリアの教皇領の支配が失われつつあることに危機感を抱き、ローマへの帰還を検討していた。その為に北イタリアの平定を進め、ベルナボ・ヴィスコンティのミラノと1375年に講和した後、対ミラノ戦の支援を拒否したフィレンツェを叱責した。

教皇との対決を避けられないと見たフィレンツェは教皇軍の総司令官だったジョン・ホークウッドを130,000フローリンで買収し、攻撃しない保障を取り付けたが*8、その財源を聖職者からの徴収で賄い、さらに、ミラノと同盟し、ボローニャ、ペルージャなど教皇領内の諸都市に反乱を呼びかけ、戦争の為の八人委員会を設立して戦争に備えた。

怒った教皇グレゴリウス11世は、1376年に市政メンバー(参事会、八人委員会、正義の旗手)を破門し、フィレンツェを聖務停止とし、さらにフィレンツェ人の逮捕や財産没収を命じた*9。これに対してフィレンツェは市の聖職者に聖務の執行を強制して、これに反抗したり逃亡した聖職者の教会財産を没収した*10。

*8 ホークウッドは約束通りフィレンツェ領は攻めなかったが、教皇との契約も破棄せず教皇領内の都市の平定を行っており、「チェゼーナの虐殺」にも加わっている。このようにコンドッティエーレは両方から金を貰うことをしばしば行った。
*9 忠実に実行する国は少なかったが、フィレンツェの経済活動は大きく制限された。
*10 これは、宗教改革以前では過激な教会財産の没収だと言える。

ホークウッドらの傭兵がフィレンツェ領内に入らなかったため、フィレンツェ自体の戦闘は少なかったが、教皇軍が教皇領の反乱都市を平定したため、フィレンツェは不利な立場となった。グレゴリウス11世は1378年にローマに移ったが*11、まもなく死去し、ミラノの仲裁により八聖人戦争も終了し、フィレンツェは20万フローリンの賠償金と教会財産の返還を行った。グレゴリウス11世の元の要求は100万フローリンであり、そう悪い条件ではなかったが、戦費は250万フローリンに達しており、市民の不満は高まっていた。

*11 これを持ってアヴィニョン教皇時代の終了とされる。

八聖人戦争中は協力体制が取られたが、戦争後はアルビッツィ派が巻き返しを図り*12、これに対してリッツィ派はアルビッツィ派勢力を抑える市政改革案を提案し、これが拒否されると民衆の支持を呼びかけた。

これに応えた民衆は、アルビッツィ派の主要メンバーの屋敷を襲い、彼らは逃れて隠れ潜んだ。リッツィ派政権は以前にアルビッツィ派が作った法を廃止し、その主要メンバーを公職追放した。

これで事態は収束するかと思われたが、暴動の際に略奪などを行った下層民たちは、後に罪を追及されることを恐れ、また自分達の行動による政変に自信を持っったため、この機会に従来から積もる不満を解消すべく新たな蜂起を企てた。これが後に言う「チョンピの乱」である。

*12 アルビッツィ派はゲルフであるため、教皇との戦争には消極的であり、八人委員会はリッツィ派が主導した。

フィレンツェの権力闘争とチョンピの乱(3) - チョンピの乱

フィレンツェの市政はギルド(アルテ)の代表者によって占められおり、7つの大ギルド、5つの中ギルド、9つの小ギルド*13からなる21のギルドから8人*14(大中ギルドから6人、小ギルドから2人)の市政参事を出していたが、梳毛工(チョンピ)*15や行商人、労働者には独自のギルドはなく、その権利は代表されていなかった*16。

*13 当初は7つの大ギルドと14の小ギルド、後に12の大ギルドと9つの小ギルドと分けられたこともある。
*14 9人目が正義の旗手
*15 羊毛の前処理として梳く仕事だが、単純な力仕事の面が強く、職人として扱われていなかった。
*16 黒死病大流行より前の1345年にも梳毛工の抗議行動があったが、この時は抑え込まれている。

1378年7月21日に下層市民・労働者らは市庁舎を占拠し、彼らの代表として梳毛工のミケーレ・ディ・ランドを「正義の旗手」*17とした。ランドは梳毛工・染色職人、床屋・仕立て職人等、そして最下層の労働者の三つのギルドを新たに作り、参事会には小ギルドから3人、新ギルドから2人代表を出すと決め*18、その他、様々な下層民の為の政策を打ち出した*19。

*17 配下に市民兵を持ち司法長官のような立場であるが、政権の首班でもある。
*18 大中ギルドの参事は6人から3人に減ることになる。
*19 同様の性格を持つイングランドの「ワットタイラーの乱」は、3年後の1381年に起こっている。

ランドは良識ある人物であり、リッツィ派の有力者にも協力を求め、穏健的な方針を取ったが、下層民の急進派はこれに不満で、さらなる改革(革命)を求めて8月31日に蜂起したが鎮圧され、これをもってチョンピの乱は終了したとされる。

実際は、この後3年間に渡り、リッツィ派と中下層民による革命政権とも言える政体が続き、ベネデット・デリ・アルベルティ、ジョルジョ・スカーリ、サルベストロ・デ・メディチ、トンマーゾ・ストロッツィが市政の主導権を握った。

新ギルドは解散されたが、大中ギルドが4人に対して小ギルドは5人の参事を出し、「正義の旗手」は交替で選出することになり、小ギルドの力が強まっている。

しかし革命的混乱はその後も続いた。

息を潜めていたアルビッツィ派はナポリ王位を狙うドラツィオ・アンジュー家のカルロ(3世)と結び、内外から呼応することを計画したが発覚し、ピエロ・アルビッツィ、カルロ・ストロッツィなどのアルビッツィ派は一斉に逮捕・処刑され*20、これは穏健派に大きな衝撃を与えた。

*20 カルロ・ストロッツィは逃亡に成功。

リッツィ派の指導者も分裂を始め、ジョルジョ・スカーリ、トンマーゾ・ストロッツィが民衆を背景にして強権を振るい、これを恐れた穏健派はベネデット・デリ・アルベルティを引き込んでクーデタを起こし、スカーリは処刑され、ストロッツィは逃亡した。

その後も、大ギルド、小ギルド、下層民のそれぞれの階層が不満を持ち、実力により政変を起こすことを覚えた民衆は不満がある毎に蜂起した。

疲弊した人々は、1378年以降に市外退去や公職追放になった人々を呼び戻し、1382年にゲルフ政権(アルビッツィ派)が復活した。ランド、サルベストロ・デ・メディチ、ベネデット・デリ・アルベルティらが追放され、改革はほとんど取り消され、以前の体制に戻された。

フィレンツェでは、その後も激しい政争は続いたが、ジョバンニ・ディ・ビッチ*21が銀行業で成功し*22、フィレンツェでの影響力を強めた。ジョバンニはあまり政治には関わらなかったが、子のコジモ・デ・メディチは一派の領袖として積極的に政治に関与し、ロンバルディア戦争の中で、1433年までに政権の有力者となっていたが、ルッカ攻撃に失敗して停戦すると、彼の僭主化を恐れたアルビッツィ家やストロッツィ家により追放された。

*21 彼の家系は傍系で中堅市民だったが、ジョバンニが銀行業で大成功し、フィレンツェの実力者に加わった。
*22 ピサ教皇ヨハネス23世と親しくなったのがキッカケだが、統一教皇になった後も教皇庁との関係は続き、1439年にフィレンツェ公会議を誘致している。

しかし、新政権は住民の支持を得られず、わずか1年でコジモは追放を解かれて呼び戻され、アルビッツィ派を一掃した後、1464年の彼の死まで事実上の最高権力者として自宅で政権*23を動かすことになる。

*23 復帰後は自分では公職に就かず、自宅で政権担当者に指示を与えることで事実上の最高権力者として振舞った。目白の闇将軍に似ているかもしれない。

メディチ家が公然と僭主化するのは、子のピエロ*24の代で、これはメディチ家の支配が強化されたというより、弱体化したため正式な体制が必要になったと言える。しかし、1469年から当主となった子のロレンツォ(イル・マニフィーコ)は1478年のパッツィの陰謀を見事な指導力で乗り切り、名実共にメディチ家の支配体制を確立した。以降、メディチ家は、何回かの中断はあったが、1737年までフィレンツェの支配者として続いた*25。

*24 体が弱く、痛風病みのピエロと仇名された。
*25 1569年からトスカナ大公

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