スペインという国はパッチワークの国である。ヨーロッパの大きな国は大なり小なり継ぎ接ぎなのだが*1、なまじ近世に植民地で栄えたため、スペインは近代国家に成り損ねて、国家的成熟が少ないまま現在に至っているように思える*2。そのため各地域は独自性を維持しただけでなく、中央政府への信頼や同じ国家の共同体という感覚が育たず、バスク、カタルーニャなどは、状況が許せばすぐにでも独立したい意向を持っているようだ。
*1 ドイツやイタリアは近代になって統一されるまで小国家群だった。英国もイングランド、スコットランド、北アイルランドの連合国家である。
*2 フランスは最も民族的多様性の強かった国の1つだが、フランス革命を経て最も統合性のある国家となっている。
レコンキスタの中で生まれた小さな王国が、イスラム下にあった各地域を征服により付け加えていったため、併合された年代は別々であり、君主達も抵抗が少ないよう地域毎に統治したため*3、各王国はあまり統合されない連合国家*4の状態が続き、それらが分離・統合を繰り返した。
*3 イスラム勢力との間で奪取を繰り返していたため、その地域の慣習を尊重しなければならず、大胆な統合はできなかった。
*4 例えばアラゴン連合王国(Crown of Aragon)は、アラゴン王国(Kingdom of Aragon)、バルセロナ伯国(カタルーニャ公国)、バレンシア王国から成り立っており、後にはマヨルカ王国、シチリア王国が加わっている。
アストリアがレオンに遷都してレオン=アストリア王国に、パンプローナ王国がカスティラ、ナバラ、アラゴンに別れ、やがてカスティラがレオンと連合し、アラゴンがバルセロナ伯領と連合し、カスティラ王国からポルトガルが分離して、中世末期にはカスティラ王国、アラゴン王国、ナバラ王国、ポルトガル王国の四ヶ国体制となっていた。
それが15世紀後半にカスティラ王女イザベル1世とアラゴン王子フェルナンド2世の結婚により、同君連合であるスペイン王国*5が誕生したが、その経緯はすんなりとではなかった。
*5 18世紀までは同君連合の状態が続いたが、通称としてイスパニア/スペインと呼ばれた。ナバラは併合されている(ナバラ王国の消滅 参照)。
カスティラ王ファン2世(在位:1406年 - 1454年)の長い治世は、側近アルバロ・デ・ルナ*6とトラスタマラ家の従兄弟のアラゴン王子*7たち、それぞれに与する貴族たちの派閥争いに終始した。
*6 カスティラ王軍司令官、サンティアゴ騎士団長
*7 カスペの妥協でアラゴンもトラスタマラ家の分家になっている。フェルナンド1世の息子のアルフォンソ(5世)、ファン(2世)、エンリケ、マリアなど
1406年に父エンリケ3世が死去し、わずか1歳で王位に就いたが、幼少時には叔父のフェルナンドと母カタリナ*8が摂政を務めた。1412年のカスペの妥協でフェルナンドがアラゴン王として即位し、母が1418年に死去すると、寵臣アルバロ・デ・ルナを重用したが、一方ではアラゴンの圧力により1418年にアラゴン王女マリアと結婚しており、アラゴン王子達の影響力も依然として強く、これらの派閥争いの中で、しばしばデ・ルナは追放され、再び復帰することが繰り返された。
*8 ジョン・オブ・ゴーントの娘で、ペドロ残酷王の孫
しかし、1445年のオルメドの戦いでアラゴン王子エンリケが戦死し、その直後に王妃マリアが死去して*9、アラゴンの影響力は低下し、アルバロ・デ・ルナの権力が確立したように見えた。
1447年にファン2世がアラゴンから離れてポルトガルと同盟するため、イサベル*10と結婚したのもデ・ルナの意向だったが、イザベルはデ・ルナの影響力を嫌って、その罷免をファン2世に繰り返し願い*11、根負けしたファン2世は側近にアルフォンソ・ペレスを取り立て、危機感を抱いたデ・ルナがペレスを暗殺し、その罪で1453年にデ・ルナは処刑された。
*9 デ・ルナによる暗殺が噂された。
*10 ポルトガル王ドゥアルテ1世の弟ジョアンの娘
*11 イザベルは若干、ヒステリー気質で精神上に問題があり、後年、痴呆症となり長く隔離されている。
イザベルは 1451年にイサベル(1世)、1453年にアルフォンソ(1453年 - 1468年)を生んだが、ファン2世は1454年に亡くなり、前妻マリアとの間の嫡男エンリケ4世がカスティラ王に即位すると子供達と共にアレバロ城に移って、ひっそりと質素に生活し、後にデ・ルナの亡霊に怯えるなど精神を患った。
エンリケ4世は1440年にアラゴン王ファン2世の長女でナバラ王女のブランカと結婚していたが、交接はせず、1453年に婚姻を無効としてナバラに帰している*12。1455年にポルトガル王ドゥアルテ1世の娘ファナ*13と結婚し、1462年に娘ファナが生まれたが、エンリケ4世は不能王と仇名されるようにインポと思われており、その父親が取り沙汰され*14、フアナ・ラ・ベルトラネーハ(ベルトラン・ラ・クエバの子)と仇名された。この頃にアレバロのイサベルとアルフォンソも王宮に呼び戻されている*15。
*12 ナバラ王国の消滅で述べたように、父ファン、妹レオノールらに監禁され、やがて毒殺されている。
*13 親ポルトガル政策が続いているためだが、ファナ王妃は従姉妹の前王妃に好意を持っていなかったようだ。
*14 ファナ王妃は後に別の男性との間の子を生んでおり、当時からその素行には噂が絶えなかった。
*15 この2人が反対派に利用されることを恐れて手元に置いたのだろう。自分の子を王位に就けたいファナ王妃が、この2人を暗殺するために監視下に置いたという噂もあったが中傷だろう。
スペインの創生
スペインの創生(1) - カスティラの騒乱
スペインの創生(2) - ポルトガル vs アラゴン
エンリケ4世はナバラのカルロス王太子が父のアラゴン王ファン2世に敵対するのを支援したが*16、1460年から反エンリケ派の貴族たちはファン2世と結んで、アルフォンソ王子を立てて反抗し、両国に跨がった内乱に発展した。
1462年からのカタルーニャの反乱では、エンリケ4世はアラゴンの対立王に選ばれたが、状況は悪く翌年に放棄している。1464年に反対派貴族の要求に屈して異母弟アルフォンソ王子を後継者としたが、彼が1468年に死去したため、その姉のイザベル(1世)が後継者とされ、その結婚はエンリケ4世とイザベルの両者の同意を要すると取り決められた。
*16 ナバラ王国の消滅 参照
エンリケ4世はイザベルをポルトガル王アフォンソ5世と結婚させようとしたが、イザベルはそれを拒否して、1469年にアレバロ城の母に会いに行くと偽って王宮を抜け出し、アラゴン王太子フェルナンド(2世)と結婚した*17。
面白いことに、アラゴン王女の息子のエンリケ4世がポルトガルと同盟し、ポルトガル王女の子供のアルフォンソやイザベルがアラゴンと同盟する図式となっている*18。
*17 この時に教皇の許可を取り次いだのが、バレンシア出身のボルジア枢機卿(後のアレキサンデル6世)だった。
*18 いずれの王家とも濃厚な血縁関係にあるため、どのような同盟関係も可能であり、近親憎悪なども働くようだ。
これは政策から見ると、カスティラはポルトガルとはカナリア諸島など外洋においてライバル関係にあるのに対して、地中海方面に関心が強いアラゴンとは補完関係になるため、その連合を望んだのはイザベルの慧眼と述べられることがある。
しかし、イザベルからすると中年を過ぎたアフォンソ5世と結婚しても子供が出来ないかもしれず、生まれても既に王太子ジョアン(2世)がおり、イザベルの子はポルトガル王に成れないことを嫌ったのだろうし、元々、親イザベル派は反エンリケ、親アラゴンであり、その意向も無視できない。
エンリケ4世は以前からアラゴンとの対立があるため、ポルトガルとの同盟を維持せざるを得ず、また、娘のフアナを王太子ジョアンと結婚させようと考えていたようで、最終的にはフアナとジョアンがカスティラ・ポルトガル連合を継ぐことを目論んでいたようだ。
1474年にカスティラ王エンリケ4世が死去すると、フアナ派の貴族はポルトガル王アフォンソ5世を頼り、1475年に両者を結婚させた。1476年にアフォンソ5世は王位を主張してカスティラへ侵攻したが、期待したフランスの支援は御座なりで*19、「トーロの戦い」でイザベル・フェルナンド連合軍に敗れ*20、カスティラのファナ派は離反し始めた。1478年に教皇シクストウス4世*21によりアフォンソ5世とフアナの婚姻は無効とされ、フアナは王位を放棄して女子修道院に入り、1530年までの長い生涯をそこで過ごした。
*19 世界の蜘蛛ルイ11世はアラゴンとの対抗上、支持を約束したものの、ブルゴーニュと対峙していたため、大した支援はできなかった。フランス公益同盟 参照
*20 勝敗には議論があるが、この後、イザベル・フェルナンド派が有利になっており、少なくとも政治的には負けている。
*21 極めて政治的なルネサンス教皇で、旗色が悪いとみて支持を鞍替えしたようだ。彼の庶子の嫁がカテリーナ・スフォルツァ。
1479年にアラゴン王フアン2世が死去するとアラゴン、カスティラ共にフェルナンド2世とイザベル1世が君主となり、カトリック両王のスペインと呼ばれ、1492年のグラナダ王国の征服によるレコンキスタの完了とコロンブスの新大陸発見により繁栄の基礎が築かれた。
もっとも1504年のイザベル1世の死後、アラゴン王がフェルナンド2世のまま、娘ファナ(狂女王)がカスティラ女王になるなど、未だアラゴンとカスティラの王位は統合されておらず*22、1516年のフェルナンド2世の死後に、ファナとハプスブルク家のフィリップ美王の長男カール5世の即位により実質的に統合することになる。
「イザベルが撞き、フェルナンドが捏ねしスペイン餅、座りしままに食うはハプスブルク」*23
*22 フェルナンド2世はアラゴンがハプスブルクの下になるのを嫌って、ジェルメーヌ・ド・フォワと結婚して子作りに励んだが生まれた子は早逝し、跡継ぎはできなかった。
*23 ハプスブルク食ってばっか・・・・(大空位・選挙皇帝時代(3))
1462年からのカタルーニャの反乱では、エンリケ4世はアラゴンの対立王に選ばれたが、状況は悪く翌年に放棄している。1464年に反対派貴族の要求に屈して異母弟アルフォンソ王子を後継者としたが、彼が1468年に死去したため、その姉のイザベル(1世)が後継者とされ、その結婚はエンリケ4世とイザベルの両者の同意を要すると取り決められた。
*16 ナバラ王国の消滅 参照
エンリケ4世はイザベルをポルトガル王アフォンソ5世と結婚させようとしたが、イザベルはそれを拒否して、1469年にアレバロ城の母に会いに行くと偽って王宮を抜け出し、アラゴン王太子フェルナンド(2世)と結婚した*17。
面白いことに、アラゴン王女の息子のエンリケ4世がポルトガルと同盟し、ポルトガル王女の子供のアルフォンソやイザベルがアラゴンと同盟する図式となっている*18。
*17 この時に教皇の許可を取り次いだのが、バレンシア出身のボルジア枢機卿(後のアレキサンデル6世)だった。
*18 いずれの王家とも濃厚な血縁関係にあるため、どのような同盟関係も可能であり、近親憎悪なども働くようだ。
これは政策から見ると、カスティラはポルトガルとはカナリア諸島など外洋においてライバル関係にあるのに対して、地中海方面に関心が強いアラゴンとは補完関係になるため、その連合を望んだのはイザベルの慧眼と述べられることがある。
しかし、イザベルからすると中年を過ぎたアフォンソ5世と結婚しても子供が出来ないかもしれず、生まれても既に王太子ジョアン(2世)がおり、イザベルの子はポルトガル王に成れないことを嫌ったのだろうし、元々、親イザベル派は反エンリケ、親アラゴンであり、その意向も無視できない。
エンリケ4世は以前からアラゴンとの対立があるため、ポルトガルとの同盟を維持せざるを得ず、また、娘のフアナを王太子ジョアンと結婚させようと考えていたようで、最終的にはフアナとジョアンがカスティラ・ポルトガル連合を継ぐことを目論んでいたようだ。
1474年にカスティラ王エンリケ4世が死去すると、フアナ派の貴族はポルトガル王アフォンソ5世を頼り、1475年に両者を結婚させた。1476年にアフォンソ5世は王位を主張してカスティラへ侵攻したが、期待したフランスの支援は御座なりで*19、「トーロの戦い」でイザベル・フェルナンド連合軍に敗れ*20、カスティラのファナ派は離反し始めた。1478年に教皇シクストウス4世*21によりアフォンソ5世とフアナの婚姻は無効とされ、フアナは王位を放棄して女子修道院に入り、1530年までの長い生涯をそこで過ごした。
*19 世界の蜘蛛ルイ11世はアラゴンとの対抗上、支持を約束したものの、ブルゴーニュと対峙していたため、大した支援はできなかった。フランス公益同盟 参照
*20 勝敗には議論があるが、この後、イザベル・フェルナンド派が有利になっており、少なくとも政治的には負けている。
*21 極めて政治的なルネサンス教皇で、旗色が悪いとみて支持を鞍替えしたようだ。彼の庶子の嫁がカテリーナ・スフォルツァ。
1479年にアラゴン王フアン2世が死去するとアラゴン、カスティラ共にフェルナンド2世とイザベル1世が君主となり、カトリック両王のスペインと呼ばれ、1492年のグラナダ王国の征服によるレコンキスタの完了とコロンブスの新大陸発見により繁栄の基礎が築かれた。
もっとも1504年のイザベル1世の死後、アラゴン王がフェルナンド2世のまま、娘ファナ(狂女王)がカスティラ女王になるなど、未だアラゴンとカスティラの王位は統合されておらず*22、1516年のフェルナンド2世の死後に、ファナとハプスブルク家のフィリップ美王の長男カール5世の即位により実質的に統合することになる。
「イザベルが撞き、フェルナンドが捏ねしスペイン餅、座りしままに食うはハプスブルク」*23
*22 フェルナンド2世はアラゴンがハプスブルクの下になるのを嫌って、ジェルメーヌ・ド・フォワと結婚して子作りに励んだが生まれた子は早逝し、跡継ぎはできなかった。
*23 ハプスブルク食ってばっか・・・・(大空位・選挙皇帝時代(3))