近年、欧州連合(EU)に参加してからは、ヨーロッパの一員と普通に見なされるようになったが、かってはピレネーを越えるとアフリカと言われたように、スペインはヨーロッパよりアフリカに近いという認識があった。
スペインの特異性は*1、15世紀までイスラム地域が存在し、他の西欧のカトリック世界と異なり、イスラム教徒やユダヤ教徒と共存していたことが大きいのだろう。
*1 このため、今ひとつ理解できず、これまでイベリア半島については書けなかった。
結婚や継承の習慣も西欧とは違うようで、カスティラのペドロ残酷王を調べた時にまず不思議だったのが、父のアルフォンソ11世がペドロが生まれるとすぐに妻のマリアを遠ざけて愛人レオノール・デ・グスマンを側に置いて多くの子供を生ませたことである。
中国や日本、その他の多くの世界では、愛妾が生んだ父に愛された庶子が嫡男の継承の脅威になることは良くあるし、現代的感覚だとむしろ、政略結婚の妻は跡継ぎが出来た時点でお払い箱にし、愛した女性と睦まじく暮らすのは少しもおかしくはないのだが、中世西欧の王侯においては、「結婚と女系継承」で書いたように、結婚は跡継ぎや政略結婚の駒に使える嫡子を作るためであり、結婚と愛情*2は全く別の物と考えられていたのである。
*2 宮廷的恋愛という概念があり、プラトニックであれば他の異性に愛情を持つことは当然とされた。
中世カトリック世界では、継承権は嫡子にしかなく、幼児死亡率が高いため男子1人では少なすぎるし、庶子をいくら作っても意味がないため、愛しているか否かに関わらず義務として最低でも数人の子供を作る必要があるのだ*3。
*3 これは女性にとっても同じで、避妊、中絶が禁じられていたせいもあり、母体に危険があっても命懸けで出産に挑んだ。出産は女性の戦場とも言われ、事実、産褥は女性の主要な死亡原因だった。
王侯など権力者の多くは愛人を持ったが、それは日陰というか、あくまで私的な存在で、どこかの城か館に置いて、そこを訪れるだけで、公的な場所に連れてくることはない。また、愛人にできる女性は身分の離れた女性*4だけで、愛妾を正妻に上げることもないため、愛妾が正妻の脅威になることもない。庶子も継承権を持たないため嫡子の脅威となることはなく、むしろ兄弟としての親しみを持った忠実で信頼できる家来となることが多い。
*4 正妻が居るからと言って同等の身分の女性を愛人にすることは相手の家への重大な侮辱となる
しかし、イベリア半島では、イスラム社会に近いのか、ラテン系のせいか、愛情が非常に重要視され、愛情がしばしば身分制や婚姻制度や庶嫡制度を超えてしまい、愛妾が正妻同様に扱われたり、正妻に格上げされたり、庶子が嫡子に近い処遇を受けることがあり、正妻と嫡子の脅威になることが多かったようだ。
例えば、カスティラではレオノール・デ・グスマンはほとんど王妃のように扱われ、エンリケ(恩寵王)以下の子供たちも王子のように扱われており、それが王妃マリア、ペドロ(残酷王)母子の猜疑心を煽り、エンリケらも自分達が王になってもおかしくないと感じただろう。後にエンリケは嫡子であるペドロ残酷王を殺して王位を簒奪している。
ペドロ残酷王も愛妾マリア・デ・パディーリャを王妃にし、その子供たち(ランカスター公ジョン・オブ・ゴーント妃コンスタンサ等 )も嫡子にしている。ポルトガルのペドロ残酷王は愛妾イネス・デ・カストロに対する狂愛で有名で、死後に王妃として戴冠させ、その子供たち(ヴァレンシア・デ・カンポス公ジョアン等)を嫡子扱いしている。そのような環境においては、庶子のジョアンがアビス朝を開くのも不自然には感じられない。
他の西欧ではルネサンス以降に、その傾向が現れる。例えば、イングランドでは愛妾が正妻になるのはエドワード4世とエリザベス・ウッドビルかヘンリー8世とアン・ブーリンあたりで、愛妾が公な存在になるのはチャールズ2世あたりだろうか。エドワード3世の愛妾アリス・ペラーズあたりも知られてはいるが、議会で糾弾されるなどスキャンダル扱いされている。いずれにしろ公の場で王妃代わりを勤めるような公妾は存在しなかった。
フランスではシャルル7世の愛妾アニェス・ソレルが公妾のはしりだろう。逆に愛妾を王妃に上げることは、あまり無かったと思うが、ルイ14世がマントノン夫人と秘密結婚しているらしい*5。
ルネサンス期のイタリアでも庶子はかなり公然とした存在で*6、嫡子に準じた子供として扱われている。
ルネサンスがビザンティンやイスラムの影響を受けて成立したことを思えば当然かもしれない。一方、その頃のスペインはガチガチのカトリック国家になっているのは皮肉だ。
*5 秘密結婚なら他にもあるかもしれない。
*6 チェーザレ・ボルジアやカトリーナ・スフォルツァなどは庶子である。
中世のイベリア半島の国家では、アラゴンは文化的に南仏に近く、かってはガスコーニュやラングドックに所領を持ち、アルビジョワ十字軍には南仏側で参戦し、13世紀以降は、シチリアを有するなど西欧との関連が強い。一方、カスティラはレコンキスタの中心であり、グラナダ王国を臣下国にするなどイスラム教国との関係が強く、ポルトガルはカスティラ(ガリシア)から分離しているためカスティラへの愛憎が強い*7。ナバラはフランスとアラゴンとの関係が強く、途中からはイベリア半島への影響は少なくなる。
カスティラ、ポルトガル、アラゴン、ナバラは相互に婚姻を繰り返しており、その血縁関係は密接かつ複雑であり*8、これに愛妾、庶子が加わり、女系継承もあるため、常に継承争いや陰謀が企てられ、レコンキスタが一段落した14世紀以降は、これがイベリア半島の歴史を動かす軸になったと言える。
*7 このためカスティラとの同君連合の試みは常に強い抵抗を受けている。
*8 そのせいで同じ名前の王や王族が多く、区別が面倒で書くときの表記も紛らわしい。