モンゴルの強さの秘密

さて、モンゴルの強さの秘密は何だろう?次のような理由が挙げることができる。

1. 遊牧民族であるため、当時の主力兵器である騎兵が質・量ともに圧倒的に高い。
2. 戦術が非常に上手い*1。狩りに用いる戦術と騎兵の技術・機動力を活かし、臨機応変に様々が戦法をとることができる。
3. 古代ローマ風(近代軍風といっても良い)の軍団による軍国国家だった。
4. 諜報活動を重視し、それを用いた謀略や心理戦も用いた。
5. 中国やイスラムの技術(火薬、投石器)を取り入れ、騎兵戦術と組み合わせた。これは近世の砲撃のような効果を挙げている。

*1 中世の騎士は装甲の強さを頼りに突撃して近接戦闘に持ち込むという単純な戦法が中心で、戦術をあまり工夫しない。また、中国などの戦争に慣れていない徴集兵は作戦を実行する技能を持っていない。

元々、遊牧民族はこの時代の主力兵器である馬を子供の頃から乗りこなし、常時、戦闘訓練とも言える遊牧・狩猟生活を送っており、騎射を行う軽騎兵としての能力は農耕民族より遥かに高い。

単に馬に乗るのはそれ程難しいことではなく、この時代の農耕民でも成人男子はほぼ馬に乗ることができた*2。しかし、馬上で戦うとなると話は大きく違い、刀や槍を使うには少なくとも片手を、騎射*3するには両手を離して腰だけで体を支え、馬を制御しなければならない。子供の頃から鍛錬してこそできることで、このため農耕地域では騎士や武士のように世襲で子供の頃からその訓練を受けた階級だけが騎兵となる訳だが、遊牧民族では成人男子がほぼ全員、騎兵になれるのである。

*2 今日、ほとんどの人が車の免許を持っているようなものである
*3 しかも騎射の場合、ただ矢を放つだけならともかく、狙うのであれば馬の動きがもっとも落ち着く瞬間に放たなければならず、生半な訓練ではできない。

またその技量も、騎士や武士がいくら日頃から訓練をしていると言っても、一日の一部の時間に過ぎないが、遊牧民族は馬上で暮らしていると言っても過言ではなく、その技量の差は個々の戦いだけでなく集団としての戦術行動にも現れてくる。

昔から机上の戦術と言って、作戦を考えるのは簡単だが実戦に適用するのは難しい。戦場においては、兵には恐怖心があり、机上で考えた通りに行動するには、技量と経験、そこから生まれる精神力が必要である。

白兵戦が主だった昔の戦いでは、複雑な作戦を取ることは不可能だが、単純な戦術でも実行するのは難しい。だからこそ単純な戦術でも相手が引っかかるのである。

効果的な戦術の1つに偽装敗走がある。敗走したように見せて敵に追いかけさせ、隊列が伸びきったところで、反転包囲あるいは伏兵により殲滅させる作戦で、モンゴルが多用している。これは、理論的には単純だが、実践するのは意外と難しい。昔の戦いで主流だった白兵戦においては、兵は前を向いて進んでいる時は勝っていると感じて勇気づけられるが、後ろを向いて逃げている時は恐怖に捕らわれて半分の力も出すことができない。訓練が足りない素人兵は、偽装敗走のつもりが本当に算を乱して壊走することになりがちなのだ。しかし遊牧民ではそれぞれの兵が、狩猟により様々な戦術を覚えており、明示的に指示しなくとも指揮官の意図をくみ取って行動できるのである。

軍の集結と行軍の速さにも有利な点がある。農耕民では、動員をかけて、各地から兵が集まってくるのを待ち、ゆるゆると行軍を始める。人が住んでいる場所であれば、食料の現地調達も可能だが、人の少ない場所であれば、大量の食料を運びながらであり、それらの準備も考えれば大軍は行軍するだけでも一仕事で、実際、行軍しただけで食料不足や疫病が流行って崩壊した軍は珍しくない。

それに対して、遊牧民は大規模な遠征の場合は家畜ごと連れて行くため、人気がなくとも草原さえあれば、それらの食料は自分で動いてくれる。また、急ぎの行軍の場合は、何も持たずに、替え馬だけ通常通り1人2、3頭持ち、それらの乳を飲み、疲弊した馬を殺して食料としたという。替え馬に乗りながら一日中行進する騎兵部隊は農耕民族の想像を超えたスピードで進み、彼らの予想よりはるかに早く姿を表すことになる。

このように、潜在的に強兵である遊牧民だが、定住していないだけに、定常的な国家・組織を持たず、緩やかな部族・氏族としてのまとまりを持つだけであるため、通常は文明世界である農耕民族の脅威ではない。しかし、一旦、強いリーダーの下にまとまると、瞬く間に匈奴、突厥、ウイグルのような大帝国を作り上げ、農耕世界を略奪し、貢納金を取り立てるのである。

しかし、以上の点は遊牧民族では共通である。

モンゴルが違う点は、軍事国家を作ったことである。これまで、遊牧帝国は単なる部族の連合体だった。有能な可汗が台頭すると、彼の下に入れば略奪し放題、文明世界の富が得られると各部族がその傘下に入って、あっと言う間に大帝国ができるが、勢いが失われ、その機能を果たさなくなれば、離散して元の部族に戻ってしまうという歴史を繰返してきたが、チンギス・ハンはこれらの部族を解体して、古代ローマ風(近代軍風といっても良い)の十人、百人、千人、万人の部隊に編成したのである。これによって各部族は失われ、新たにモンゴルという集団・国家が生まれたのである。

部族や封建軍は族長や諸侯単位でしか部隊を編成できず、また兵は自分の属する族長や主君にしか忠誠を持たないため、指揮系統が極めて薄弱であり、族長や主君が戦死するとその部隊は機能しなくなる。それに対して、小隊、中隊といった編成であれば、指揮官が戦死すれば、序列に従って2番手が指揮官になり、部隊編成も様々なサイズの部隊を作ることができ、しかも、それらは戦闘中ですら可能で、極めて多彩な作戦を取ることが可能となる。

もう1つ見逃せないのは、中国やイスラムといった文明世界の利器を利用したことである。本来、騎兵主体の遊牧民は城攻は苦手なのだが、モンゴルは早い時期から投石器の技術を取り入れたため城攻をさほど苦にはしていない*4。また、野戦においては、元寇にも出てくる鉄砲(てつはう)のような火薬を詰めた弾を石などと共に投石器で打ち出し*5、敵陣に混乱を与えたところを騎兵で縦横無尽に切り裂く戦法を用いて大きな効果を得ている。

*4 もっとも得意ということもなく、本格的な城攻は味方についた現地人(中国人など)が主体となるようである。
*5 てつはうだけでは大した武器ではない。元寇では相手が騎兵でないため大いに助かっている。

また、この時代にしては、モンゴルは諜報を重視しており、侵攻する前には十分に情報を集め、敵方の内情も調べており、それを用いて、敵が連合軍の場合、それらの一部に対して取り込みを計ったり、中立を勧めるたりといった調略を行ったりもしている。心理戦なども用い、モンゴルの喧伝された残虐さ「降伏するか皆殺しか」というのも、その後の征服を容易くするために意図的*6に行ったという説もある。

*6 少なくとも意図的に噂を広めたらしい。

このような強さにより、モンゴル帝国はそれ以前の遊牧帝国が成し得なかった中国やペルシアといった文明地域を征服し、唐やアレキサンダー、ローマ帝国、イスラム帝国を上回る、ユーラシアをまたがる史上最大の大帝国を実現した。それまで、それぞれの端(欧州と東アジア)が認識していたのはインドあたりまでで、そこから先は伝説に近かったが、モンゴル帝国の成立により、東西の交流は多くなり、ヨーロッパとアジアは初めて一つのユーラシア(Eur-asia)となった。大航海時代も東洋への憧れが動機であり、コロンブスも東方見聞録を愛読し、中国、日本への憧れが新大陸発見につながっている。

ところで、日本ではモンゴルといえば、元寇だが、かっては強大な元を相手に歯が立たず、運良く神風が吹いたため追い払えたとの見方があり、近年では、最強モンゴル相手に打ち勝った鎌倉武士はすごいと言った評価もあるが、襲来した元軍は上に挙げた利点をほとんど持っておらず*7、しかも兵員の半分以上は漢人、高麗人、南人だったため、あれはモンゴルというよりその名の通り中国王朝軍と何ら変わらない。まずは、妥当な結果だったのではなかろうか。

*7 馬は少数しか運んできておらず、投石器は全く持っていなかった。馬に乗らない遊牧民など陸に上がった河童のようなものである。

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