モンゴルの欧州侵攻(1)

13世紀の初頭にモンゴル高原を統一したモンゴルは、カラキタイを滅ぼし、金、西夏を攻めていたが、ペルシアから中央アジアにかけて覇を唱えていたホラズムに派遣した商業使節がホラズムの地方総督に殺される*1と、1219年に突如ホラズムに侵攻した。予想以上に早くホラズム・シャー朝は瓦解し、逃れたシャーは逃亡先のカスピ海上の小島で死亡した。追跡を命じられていた、武将のジェベとスブタイは力を持て余し、そのままコーカサスに侵攻することをチンギス・ハンに進言し許可を得て、彼らの2部隊、2万人は1221年にグルジアを打ち破った。

*1 使節団と言うのは本質的に情報収集を目的としており、特に当時のモンゴルの場合、侵攻前の下調べと思われても仕方ないところがある。地方総督も単に金品を狙って殺したわけではないかもしれないが、結果として良い口実を与えてしまっている。

草原では遊牧民のアラン族等がキプチャク平原のクマンと連合し、モンゴルを待ち受けたが、一戦して決着がつかなかった。相手が手強いと見るとモンゴルは狡猾であり、クマンに対し敵意がないことを告げて戦線から離脱させ、アラン族等を打ち破った後、そのままクマンを襲ってこれを敗走させた。

ちなみに、この時期にクリミアにいたベネチア人*2がモンゴルと交渉しているとのことで、ヨーロッパ人がモンゴルと接触した最初の例かもしれない。

*2 黒海沿岸は穀物輸出地域であり、ベネチア、ジェノヴァなどの商業拠点が存在した。

クマン王は女婿であるルーシーのハルーチ公ムスチラフに援助を求め、「唇亡ぶれば歯寒し」と説いたが、元々、クマンとルーシも敵対することが多かったため、なかなか援助を得ることができなかった。

しかし、1223年になり、モンゴルの侵攻が再び始まるとキエフ公、ウラジミル・スズダリ公等が立ち上がり、ルーシー諸勢力とクマンの大連合軍が誕生した。

ジョチの病のため、当てにしていた援軍が得られなかったジェベとスブタイだったが、ルーシー諸勢力の行動の偵察結果から、ルーシー勢に統一した指揮者がいないことを知り、9日間、東に撤退*3し、ルーシ勢を引き込み、カルカ河畔に至ったところで反転し、追撃してきたクマン勢を打ち破った。クマン勢はルーシー諸勢の陣に逃げ込み、そこで生まれた混乱に乗じてモンゴル騎兵がルーシー勢を分断し、包囲、殲滅した。

ハルーチ公は何とか包囲を逃れ脱出したが、戦場に遅れて着いたキエフ公はこの状況を見て、補給キャンプ地に撤退し篭もった。モンゴルに包囲されると、キエフへの帰還の保証を条件に降伏を選んだが、モンゴルはキエフ公等数人を除いて皆殺しにし、後にキエフ公も処刑した。

*3 おそらく、この撤退期間中に、熱心でない公たちが引き上げるなり、追撃が遅れるなりして分散することを狙ったのだろう。

しかし、この時のモンゴルにはルーシーを征服する意図はなく、東に向かいボルガ・ブルガルと戦って後、本隊に合流すべく中央平原に去っている。その後、ジェベは1225年に病死し、チンギス・ハンも1227年に亡くなっていたため、西方への侵攻はしばらく中断した。

モンゴルの欧州侵攻(2)

しかし、1236年に第二代大ハンであるオゴタイ・ハンは西方の責任者としてジョチ家のバトゥを総大将に、オゴタイ家のグユク*3、ツルイ家のモンケ*4と各家の代表を集めた豪華メンバーを大将とし、全軍の総参謀としてベテランのスブタイに西方侵攻を命じた。

*3 第3代大ハーン、*4 第4代大ハーン

モンゴルは一見、その優勢な騎馬部隊により力任せに征服しているように見えるが、実は細かい諜報活動と綿密な作戦計画により戦闘を行っていることが多いのである*5。スブタイは前回の遠征の際に、各地に協力者を作っており、中断期間中も常に西方の情報を入手していたと言われる。

*5 勢いにまかせて荒らしまわり略奪するのは遊牧民の性であるが、モンゴルにおいては、これも威力偵察の役割をしている。大部分の敵はその威力偵察にすら会戦で負けているため区別がつき難いが、本格的な征服は計画的に行っている。

35000人とされるモンゴル軍は1236年の1年をかけてボルガ・ブルガル、キプチャク・クマン、アラン族の遊牧諸勢力を征服し、1237年の終わりにルーシに襲来した。組織的な抵抗を行ったのは、ウラジミル・スズダリ公だけだが、シチ川の戦いで完敗し敗死した。その後、モンゴルは小部隊に分かれて北部の各地を征服し、1238年にはクリミアに入り、1240年の終わりにはキエフを陥落させ、ルーシーの大部分をモンゴルの支配下に入れ、以降、250年に亘るタタールの軛と呼ばれる。

ハンガリーは隣接するハルーチを通してルーシーとは関係があり、また本来、遊牧民であったマジャール人はキプチャク草原の遊牧民とも交流*6があり、モンゴルに追われたクマンの王は部族を率いて、ハンガリーに逃れてきていた。

*6 草原には未だに遊牧しているマジャール人の一派も残っていたらしい

モンゴルはハンガリーがクマンを匿ったことを非難し、これを口実に降伏を要求した。これがルーシー支配への西欧勢の干渉を牽制する目的だったのか、本格的な欧州侵攻を考えていたのかは不明だが、モンゴル勢は3隊に分かれて、一隊はバイダル、カダン、オルダが率いてポーランドに、一隊はグユク等が率いてトランシルバニアに、バトゥ、スブタイ率いる本隊はハンガリーに侵攻した。

ポーランドの支隊は、ハンガリーへの救援軍を防ぐ目的だったが、ポーランドの各公がボヘミア王を待ってレグニツァに集結しているとの知らせを受けて、急遽これを襲撃した。

当時のポーランドには王がおらず、シロンスク公は最有力とはいえ、他の公やドイツ騎士団などに対する命令権を持たず、統一した行動が取れなかった。王のいない封建軍は弱く、当時の西欧軍は重装騎兵である騎士の突撃が中心であるが、モンゴルは偽装撤退で騎士隊を誘い込んで包囲殲滅し、それを見て逃走し始めた歩兵を掃討し壊滅させた。

一方、ハンガリーも、先代のエンドレ2世の時代に、王領を配分して諸侯の力が強まり、当代のベラ4世は王権の回復のために、移住してきたクマン族の武力に頼ったため諸侯の反発を受けており、一致して外敵と戦える状況ではなかった。ハンガリー王やクマン族はモンゴルの脅威を知っていたが、諸侯達は事の重大性を理解しておらず、諸侯とクマンの対決からクマン王が暗殺され、クマン族がハンガリーから退去したため、その武力も利用できなくなっていた。

それでもモヒの戦いでは、数的には互角以上であったが、スブタイの優れた作戦能力と中国の火薬とイスラムの投石器を組み合わせた砲撃により、遊牧民としての騎兵の精悍さを失って歩兵中心だったハンガリー軍は完敗を喫し、ハンガリー王は命からがらクロアチアまで逃れた。

モヒの戦いの後、ハンガリー全土は蹂躙され、15%~25%の人口が失われたとも言われるが、ところが、ここで日本で言えば神風が吹いた。1242年にモンゴルは突然、撤退を始めたのである。後に、オゴタイ・ハンが亡くなったため、次の大ハン選出のクリルタイのために引き返したことが判明するが、当時の人間にとってはまさに神の加護と思われただろう。

モンゴルの欧州侵攻(3)

この遠征中にグユクとバトゥが激しく対立し、グユクが第3代ハンになった後、確執は一層、激しくなり、バトゥによるグユクの暗殺につながる。モンケとバトゥは対グユクで協力関係にあったが、遠交近攻の性質のもので、お互いに干渉しないことで平和を保ったのであり、この後、全モンゴルが協力して西方に侵攻することはなかった。バトゥのジョチ家がサライを本拠に草原にキプチャク汗国を建て、しばしばポーランド、ハンガリーに侵攻、略奪を行ったが、本格的な征服*7を行う力はなく、ルーシー諸国を間接支配*8しただけである。

*7 ハンガリーでは全土で城塞を築くことが奨励された結果、モンゴルは略奪はできても征服することは難しくなった。一方、城塞を所有した諸侯は一層、独立色が強くなり、王権にとってはマイナス面もある。
*8 タタールの軛と言われるが、貢納、軍役を課すだけで日常の統治はルーシーの各公に任せていた。

一方、西欧で最初にモンゴルの事を聞いたのは中東の十字軍国家であり、東方の謎の集団が突然、イスラムの有力国家ホラズムを滅ぼしたというもので、伝説のプレスター・ジョンのキリスト教王国ではないかとの期待が高まった。その後、キリスト教国家ではないことが分かったものの、モンゴルの傘下にはケレイトやナイマン系などのキリスト教徒*9も多く、対イスラムでの共闘が期待された。

*9 ネストリウス派が多く、カトリックから見れば異端なのだが、異教徒と対峙する場合は、同教徒としての親近感はある。

しかし、1236年以降のルーシーへの侵攻により、その驚異的な強さ、残虐さが、ハンガリー、ポーランド等を通して伝えられ、タタール*10をギリシア語のタンタルと重ねて地獄からの軍団と恐れられた。レグニツァの戦いはドイツ騎士団等の宗教騎士団が参加していたため、その敗北は西欧にも強い印象を与え、さらに1245年~48年の教皇特使プラノ・カルピニのバトゥ、大ハン・グユク訪問の報告から、欧州を征服対象と見ていることが明らかになり、これを聞いたフランスのルイ9世(聖王)は「イスラム教徒の脅威が無くならないまま、地獄から軍団が現れるのは我々が罪深いからで、この世の終わりが近づいているのではないか」と嘆いている。

*10 本来はタタール部族を指すが、他民族はしばしばモンゴル全体をタタール(中国では韃靼)と呼んだ。キプチャク汗国ではモンゴルに従っていたチュルク系が主体であったため、欧州ではチュルクをタタールとも呼ぶようになり、タルタルステーキ、タルタルソース、韃靼人の踊りなどはトルコ系から来ている。

とは言え、西欧から見て、ルーシーは風俗も宗教も違う遠い異国であり、ハンガリー、ポーランドも同じカトリック圏とは言え辺境の地であった。1241年の撤退後は大規模な征服もなく、西欧では中東におけるイスラム教徒との戦い(十字軍)の方が重要視されており、実際、フラグの中東侵攻時には、十字軍国家はモンゴルに従ってマムルーク朝と戦っている。

ローマ教皇は1245年にプラノ・カルピニを、フランスのルイ9世は1253年に修道士ルブルクをそれぞれモンゴルに派遣しており、西欧でも上層部ではモンゴルの事情は随分知られており、またベネチアは早くからキプチャク汗国と交渉があったはずであり、中東のイル汗国とも繋がりがあったが、一般大衆においては、ほとんど知られていなかった。1300年頃にジェノバの牢内でベネチア人のマルコ・ポーロから話を聞いたピサの作家ルスティケロが書いた「世界の記述(東方見聞録)*11」が多くの言語に翻訳され人気を呼んで、初めて中国の事情が西欧に広まるようになった。

*11 マルコ・ポーロがどれくらい実体験をしたのか、あるいは本当に元まで行ったのか、それどころかマルコ・ポーロの実在性すら確実ではないが、ここで示された情報が欧州に伝わっているという事実が重要である。

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