カテリーナ・スフォルツア - フォルリの女虎

カテリーナ・スフォルツア - フォルリの女虎(1)

ルネッサンスは、またシモニア(聖職売買)とネポティズム(縁故主義)の時代だった。ルネッサンス教皇たちは、自分とその一族の利益と繁栄のために、争って教皇選挙を勝ち抜き、その買収費用を賄うために、職に就いた後に当然の権利のごとく役職や利権を販売して、その回収を試みたのである。

ネポティズムも本来は子供を作れない聖職者が親族*1を登用することだったが、ルネッサンスにおいては、聖職者が庶子を造り、彼らを要職につけ、その利益を計ることがほぼ公然と行われた。その際たる例が、悪教皇として名高いアレクサンデル6世とチェーザレ・ボルジアであるが、その小型版は歴代の教皇が行っており、シクトウス4世とジローラモ・リアリオもまたその1つだった。

*1 同年代の親族一般を従兄弟と言い、1つ下の世代一般を甥と呼んだ。ネポスとは甥の意味。

スペイン出身であるため、ネポティズムをもっぱら自分の庶子に対して行ったアレクサンデル6世と比べると、イタリア出身のシクトウス4世は自分の一族であるデラ・ロベーレやリアリオ家から6人の枢機卿を出すなど様々な利益を振り撒いている。

教皇は、たぶん庶子と推定される*2ジローラモ・リアリオに中部イタリアの小都市イモラとフォルリを与えており、さらにフィレンツェを与えようとして、メディチ家を排斥するためパッツイ一族と画策したのが「パッツイの陰謀」である。この企ては、その弟ジュリアーノを暗殺したのみで、当主であるロレンツオ・イル・マニフィーコ(大ロレンツオ)の暗殺に失敗し、その報復として、ピサ大司教は吊るされ、パッツイ一族は殲滅された。

*2 正式にはリアリオ家の子供とされているが、教皇の庶子であることは公然たる秘密だった。

シクトウス4世はフィレンツェを聖務停止にし、ナポリ王フェルナンドに攻撃を要請したが、ナポリ王は単独で大ロレンツオと和睦してしまい、また、別の甥に与えるためベネチアにフェラーラを攻撃させたが、これもイタリア諸都市の反発を食らってミラノ、フィレンツ、ナポリの連合を作らせてしまうなど、陰謀家としての手腕もアレクサンデル6世よりかなり劣っていたようである。

さてジローラモ・リアリオはミラノ公ガレアッツォ・スフォルツアの庶子カテリーナと結婚した。ルネッサンスのイタリアにおいては、庶子は継承権こそ無いものの、社会的には公然とした存在だったようであり、彼女は十分な文化的教養に加えて、傭兵一族スフォルツアの名に相応しい政略や軍略を学んでいたようである。ジローラモは教皇領司令官の地位をもらい、カテリーナと共にローマに居住していた。

1484年にシクトウス4世が亡くなった時の彼らの運命もまた後のチェーザレ・ボルジアと似たようなものであり、早速、反対勢力が報復を始めたが、カテリーナは暴動が始まると手勢を率いて直ちにサンタンジェロ城を占拠した。この行動は大いにローマにおけるジローラモの立場を強化し、イモラとフォルリの領主権と教皇領司令官の地位を保ったままローマを退去することができた。

しかし、新教皇にイノケンティウス8世が選ばれると、教皇領司令官の実権は奪われ、さらに新教皇の庶子をイモラとフォルリの領主に据える陰謀が企てられ、フィレンツェの大ロレンツオも弟の復讐のために、この陰謀を援助していた。

1488年にフォルリのオルシーニ一族がジローラモを暗殺し、カテリーナと子供たちを捕らえたが、ここで、カテリーナの女傑ぶりが発揮される。防戦している砦の投降を説得するとして、子供達を人質として残して砦に乗り込むと、直ちに防備を固めさせ、バルコニーの上から反逆者たちへの報復を宣言した。驚いた反逆者たちは子供達を殺すと脅したが、カテリーナは股間を指差して「ここから、いくらでも作れるのを知らないか」と嘯いたという伝説がある。

もっとも、12世紀のイングランドで、ヘンリー2世の母モード側についていたジョン・マーシャルが息子のウイリアム・マーシャルを人質に捕られて寝返るよう脅された時に、やはり自分の股間を指差して同じことを言ったらしい。従って、伝説の1つのパターンとして存在しており、それに基づいて創作されたか、あるいは、逆に、そのような言い回しが一つの慣用句となっており、実際に言った可能性もある。

あきれた反逆者たちは、当然、子供を殺すこともできず気圧され、やがて、ミラノから救援が到着すると散々に逃亡することになる。この時、カテリーナは、報復として陰謀に加わった全ての者とその家族を投獄したが、これはこの当時としては非常に過酷という訳ではなかった。

むしろこれら一連の行動は彼女の有能さを示すと見られ、イノケンティウス8世もまもなく、彼女の長子オッタビアーノ・リアリオをイモラとフォルリの領主として承認し、カテリーナはその後見人となり、事実上の女領主として全てを取り仕切った。

カテリーナ・スフォルツア - フォルリの女虎(2)

まもなく、彼女は守備隊長のジャコモ・フェオと2度目の結婚をし、彼を要職につけると共に、カテリーナの母方の親族(ランドリアーニ一族)を各砦の城代に置いたが、リアリオの支持者たちは、これらの措置が本来の領主であるオッタビアーノの立場を弱めると憂慮し始め、特に、ジャコモ・フェオが義父としてオッタビアーノに対して傲慢な態度を取ることが目立つようになると、その心配は一層強まった。

1495年にオッタビアーノの支持者たちはジャコモ・フェオを暗殺した。彼らは、オッタビアーノを担いでいるため、カテリーナもこれを認めざるをえない、あるいは既に黙認していると考えていたが、激怒したカテリーナは直接の下手人はもちろん、陰謀に係わった者全てと、それに加えて彼らの家族も捕らえ、残虐な方法で処刑した。処刑された者達はリアリオ家の支持者であり、彼らを処刑したこととその残虐さで、カテリーナはフォルリやイモラの市民の支持を完全に失ってしまった。

イタリアを震撼させた女傑カテリーナだが、彼女も複雑なイタリアの政治には振り回されることになる。

1494年にフランス王シャルル8世がナポリに侵攻*4した際は、彼女の叔父であるミラノのルドビーコ・スフォルツア(イル・モーロ)はフランス王を誘った張本人であり、一方、教皇アレクサンデル6世とリアリオ枢機卿はこれに反対する立場だった。小さいながらも南北の通路の要衝にあるフォルリは態度を決める必要があり、中立としながらも、フランス軍の通過を認めざるを得なかった。まもなく、アレクサンデル6世が反フランス連合を結成し、フランス王を追い出すことができたが、フランスの脅威が去ったわけではなかった。

*4 これがイタリア戦争の始まりである。

ミラノ以外の強力な後ろ盾を必要としたカテリーナは、フィレンツェの支援を期待して、1497年にメディチ家のジョヴァンニ・イル・ポポラーノ*5(大ロレンツオの従兄弟)と結婚し、翌年に息子ジョヴァンニを産むが、夫のイル・ポポラーノは同年に亡くなり、再び後ろ盾を失ってしまう。

*5 彼は追放されたメディチ本家とは違う立場で、フィレンツェ共和国を支持してその役職に就いている。ポポラーノは民衆という意味で彼の立場を表している。

1499年にフランス王ルイ12世はイタリアに侵攻し、カテリーナの叔父イル・モーロからミラノを奪った。教皇アレクサンデル6世はルイ12世と取引をしており、ルイ12世の離婚*6とナポリ侵攻を認める代わりに息子のチェーザレ・ボルジアへのフランスの支援を要求したのである。チェーザレはフランスのヴァランス公を与えられ、父の教皇からは教皇軍司令官に任命され教皇領に割拠する小領主(シニヨーリ)の征服が許可された。

その第1の目標に選ばれたのが、南北通路の要衝であり、またリアリオ家/カテリーナの支配に入って日が浅く、以前の弾圧で人心も離れていると考えられたカテリーナの支配するイモラ、フォルリだった。チェーザレの最初の実戦の相手として手頃と見られたのだろう。既にミラノはフランスに奪われており、カテリーナは独力で防衛しなければならなかった。

*6 ブルターニュをフランス王家に確保するために、シャルル8世王妃であったアンヌと結婚する必要があり、以前の妻であるジャンヌとの婚姻を無効にする必要があった。

彼女は日頃から防衛設備の補強、武器の補充、兵士の訓練を怠らず、その防衛力には自信を持っていたが、カテリーナは市民の支持を失っており、チェーザレがイモラに進軍してくると市民は城門を開いてこれを受け入れた。これを見たカテリーナはフォルリの防衛を諦め、自らの兵のみで城塞に立て篭もった。

何故、この時点でカテリーナが徹底抗戦を決意したのかは不思議である。イタリアの小都市の君主の場合、勝てないと見れば逃げるのが普通であり、現にミラノのイル・モーロも皇帝マクシミリアン1世の所に逃げて援助を請うているのである。

ミラノ公国が健在であれば、その援軍を期待することができたが、教皇はもちろん、フランス王もチェーザレを支持している状態で、フィレンツェも動くことができず、彼女を援助しようという勢力は存在しなかった。さらに、チェーザレは降伏すれば、安全な退去と年金を保証しており、将来的に年金は当てにならないとしても、絶望的な抵抗を試みる必要はなかったように思える*7。

*7 但し、イル・モーロはこの時点で反撃の準備をしており、その情報を受けていたのかもしれない。実際、この後、フランス軍はミラノへの対応のために引き上げており、もう少し持ちこたえることができれば状況は変わっていたかもしれない。また、アレクサンデル6世の暗殺を計った、チェーザレを話し合いのために呼びだして捕獲しようとしたという逸話もあり、それなりに勝算があったのかもしれない。

カテリーナの城兵は奮闘したが、やがて大砲による長時間の砲撃により城壁にヒビが入り、白兵戦の中でカテリーナ自ら刀を持って奮戦したとも言われるが、ついに力つきて降伏した。

マキャベリは君主論の中で、彼女が城塞ではなく、人心を得るべきだったと批判している。武田信玄の「人は石垣、人は城」といったところだろうか。

イモラとフォルリの放棄に同意し解放された後は、フィレンツェで暮らした。1503年にチェーザレが没落した際に、返還を教皇ユリウス2世(デラ・ロベーレ枢機卿)に求めたが、両市の住民が彼女を拒否したため、以前の領主だったオルデラフィ家が復帰することになった。その後は落ち着いた生活を送り、1509年に亡くなっている。

彼女とジョヴァンニ・イル・ポポラーノとの子は、黒隊のジョヴァンニで知られる傭兵隊長として活躍し、その子であるコジモは、メディチ家のフィレンツェ公アレッサンドロが暗殺された後にフィレンツェ公となり、さらにシエナを併合してトスカナ大公国を建てている。従って、カテリーナの血はヨーロッパの多くの王侯家に引き継がれている。

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