日本人の特質と思われるものの多くは江戸時代の産物で、270年に及ぶ鎖国と太平の世により、独自の文化が熟成されたものである。武士の気質も戦国時代までの戦う人から支配階級の官僚となり、より概念的となり儒教の影響が強まった。「二君に仕えず」や「君、君たらずとも臣、臣たれ」「滅私奉公」などは、それ以前には無かった考えである。
江戸は武士と町人の都だったが、町人達は多分に武士に憧れ、その影響を受けていたため、商人の街である大阪とは随分、雰囲気が異なっており、武士と職人的気質が融合して江戸っ子に代表される気質を作りあげていた。
江戸時代においては、江戸文化は必ずしも地方に広がっていた訳ではなく*1、地方それぞれの気質・文化が存在したが、明治維新による中央集権により、江戸の文化が日本中に広まったのだろう。
*1 但し、参勤交代を通じて、各地の武士や城下町は、多分に江戸文化の影響を受けている。
武士は食わねど高楊枝、宵越しの銭は持たない、蕎麦は腹を膨らせるものでなく粋で食うというのは武士の都である江戸の心意気である。
武士は食わねど高楊枝は、武士の心構え、「武士の気位の高さを喩えた言葉」とも言うが、上方のいろはガルタに由来しているところを見ると武士の痩せ我慢を揶揄した川柳だったのであろう。
江戸っ子が宵越しの銭を持たないのは、少ない労賃のため残しようがないからであり、わずかばかり残すくらいなら、使ってしまえとヤケッパチになっているのを心意気に置き換えているのである。また、江戸は火事が多く、多少、道具などに金をかけても燃えて無くなってしまうことも原因で、土蔵を持つくらいの金持ちでなければ使ってしまった方がマシなのである。
蕎麦は今でこそ小麦より値段が高く、蕎麦粉の含有率が高い蕎麦が高級品とされているが、元々、米も麦も作れない山間部の痩せた土地でも栽培できる数少ない作物だった。そのため、貧乏人の食い物だったのを何とか食べられる物に工夫したのが、麺類にした蕎麦切りなのである。
裕福な上方(まあ麦作地が多いせいもあるが)では小麦を使ったうどんが人気だったのに対して、蕎麦しか食べられなかった訳だが、滑らかなうどんとは違う、ボソボソとした食感と独特の香り、風味を粋として好んで食べていると称した。量が少ないのも粋であり、その分、蕎麦湯で腹を膨らませるが、これも蕎麦湯の風味を楽しむものと強弁した。
蕎麦はツユにどっぷりと漬けちゃいけない、先っぽをちょっと濡らすくらいで、すするのが通といったが、これも鰹出汁を使って比較的高価なツユを少量ですませるための痩せ我慢であり、残ったツユも蕎麦湯として無駄なく消費しているのである。
京の着倒れ、大坂の食い倒れ、江戸の酔い倒れ等と言い、豪奢な方向に見栄をはる京都、実質本位の大阪、痩せ我慢でヤケッパチの江戸の特徴がよく示されている。
火事と喧嘩は江戸の華というのも痩せ我慢であろう。喧嘩も迷惑だが、火事に至っては非常な災害であるが、江戸の狭い町人地区に木造建築がギッシリと建っているため、火事は防ぎようが無かったのである。それで開き直って、江戸の名物で、見て楽しんでいると笑い飛ばそうとしているのだ。
痩せ我慢を文化にまで昇華させたのは江戸時代300年弱の熟成の成果といえるが、これが太平洋戦争中の「欲しがりません勝つまでは」に繋がっていると思うと、若干、複雑である。
第一次世界大戦の敗戦国*2は実際に敗戦を認めて降伏したのではなく、敗色濃厚な君主とその政府に不満を抱いて、反乱・革命を起こした結果、政府が倒れてそのまま終戦に繋がったのであり、第二次大戦でもドイツでは終盤に何度もヒトラーの暗殺が企てられており、イタリアはあっさりとムッソリーニ政府を倒して連合国についてしまっている。
*2 ドイツ、オーストリア=ハンガリー、そしてロシアもそうである。
黙って戦い続けた日本は、痩せ我慢文化が悪い方向で働いてしまったと言わざるを得ない。