アヴィニョン教皇と教会大分裂

アヴィニョン教皇と教会大分裂(1)

アヴィニョン捕囚という用語は非常に誤解を招き易いため、いい加減やめて欲しいものだと思う。以前にアナーニ事件とアヴィニョン捕囚でも説明したが、あれはフランス王が教皇を捕らえたり、アヴィニョンに来ることを強制した訳ではなく、弱体化したローマ教皇権がフランス王の保護を求めたもので、「カノッサの屈辱」以前に教皇権が神聖ローマ皇帝の保護を受けていたのと同様の関係なのだ。

元々、ローマ教皇というのは、軍事的には非常に弱体であり、神聖ローマ皇帝やナポリ王、コロンナ家やオルシーニ家などのローマ貴族、そしてローマの群集にすら左右される脆弱な存在なのである。それを十字軍、婚姻の承認・無効、聖務停止・破門などの手段を活用しながら、王侯間の微妙なパワーバランスを操り影響力を維持してきたのが、カノッサ以降の教皇最盛期なのである。

しかし、イングランド王家のプランタジネット家、神聖ローマ皇帝家のホーヘンシュタウフェン家の没落によりフランスの一人勝ちになった西欧情勢において、フランス王との対立の中で、教皇権が如何に無力であるかを思い知らされることになった。

ボルドー大司教だった初代アヴィニョン教皇クレメンス5世は枢機卿でなかったため、ローマの政治や情勢に昏く、アナーニ事件以降の混乱したローマに赴くことに安全上の不安を感じて、フランス王の保護下に入ることを選択したのだろう。

アナーニ事件でフランス王が実力行使を行うことが明らかになり、それに対抗して後ろ盾にできる世俗君主がおらず、その意向を無視できないのであれば、むしろフランス王権と結びつくことで、西欧をフランス勢力でまとめ、西欧の総力をもって十字軍(異教徒の撲滅、カトリック圏の拡大)、教義の統一(異端の排除、東西教会の合同)といった(教会にとって)より重要な問題に対処できると考えたわけだ。

ローマ教皇はローマ総司教であり、管轄地であるローマに居住すべきとも言うが、ローマ皇帝がドイツにいるのだから、ローマ教皇がフランス(プロヴァンス)にいても不思議はない。

しかし、フランス王はフランスの利益のために教皇権を利用し、他の王侯との紛争を理由に十字軍の出立を遅れらせたため、他の世俗王侯は教皇の権威とその仲介能力に疑問を示すようなった。

アヴィニョン教皇の思惑が狂う大きな原因となったのは、カペー朝フィリップ4世以降の各王の短命とそれによるイングランド王、ナバラ王を含めた継承争い、結果として当初の予想とは大きく異なり長期に渡った百年戦争である。

クレシー、ポワチエと続くフランスの敗北の中で、フランスを中心とした西欧の統一はほぼ不可能となる一方、イングランドなどの反フランス勢力からは不信感を抱かれることになり、フランスの保護を受ける利益が減少すると、ローマと教皇領を留守にしたマイナス面が大きくなっていった。

ナポリ王国がロベルト王の時代にはイタリアもある程度は安定していたが、ジョヴァンナ1世の時代に大きく混乱し、ローマ、教皇領、そしてイタリアは混沌に近い状態に陥っていた。教皇領には本来は代官でありながら君主として振舞うシニョーリが乱立し、教皇庁への納税は滞りがちで、教皇庁は歳入不足に悩まされることになった。

この状況において、まずウルバヌス5世がローマに復帰して立て直そうと考えたが、ローマの荒廃、イタリアの不安定ぶりを実感してアヴィニョンに引き返している。グレゴリウス11世の代に、シエナのカテリナの勧めもあり、フィレンツェとの八聖人戦争などを経て、北イタリアの諸勢力との調整や教皇領の征伐により、ようやく1377年にローマに戻った。

アヴィニョン教皇と教会大分裂(2)


しかし、運悪く*1グレゴリウス11世はまもなく亡くなり、教皇選挙(コンクラーベ)が行われたが、会場を囲んだローマの群集はイタリア人教皇の選出を要求した。教皇領として安定していたアヴィニョンに慣れていたフランス人を中心とした枢機卿たちはこれに恐怖を感じ、妥協案としてフランス分家であるナポリ王国出身のウルバヌス6世を選出したが、まもなく、ウルバヌス6世が独裁的になり枢機卿たちを軽んずる態度を示し始めたため、フランス人枢機卿たちはナポリ王国のフォンディに集まり、前回の選挙を無効として、新教皇クレメンス7世を選出した。

*1 教皇は50歳にもなっておらず、こういうタイミングだと自然死なのか人為的なものか疑惑を感じるが、確かなことは何も分からない。

フランス人枢機卿たちにしてみれば、アヴィニョンこそが最近70年間の正当な教皇庁所在地であり、大多数の枢機卿の支持を失い支持基盤もない*2ウルバヌス6世は退位せざるを得なくなると読んでおり、事実、ウルバヌス6世は自ら擁立した新ナポリ王カルロ3世からも退位を迫られたが、非常な粘り腰で踏みとどまった。

*2 本来、出身地のナポリ王国が後ろ盾になるはずだが、ジョヴァンナ1世は、クレメンス7世側を支持している。

1389年にウルバヌス6世が亡くなった際もアヴィニョン教皇庁は新教皇が選出されないことを期待したが、ローマの枢機卿は全てウルバヌス6世が選んだメンバーのため*3、やはりナポリ人のボニファティウス9世を選出し、その期待は打ち砕かれた。

*3 枢機卿は終身制のため、通常は各代の教皇に選任された枢機卿が混在しているが、大部分の枢機卿がウルバヌス6世から離れたため、ローマの枢機卿はウルバヌス6世自身が選任した人員のみで占められていた。

クレメンス7世とボニファティウス9世は相互に破門しあい、これにより、分裂状態が継続化することになり、これまでも有った通常の対立教皇が存在するというより、西方教会大分裂*4と認識されるようになった。ナポリ王国ではアヴィニョン教皇がアンジュー公ルイ2世を支持し、これに対抗してローマ教皇がドラッツイオ家のラジスローを支持したため、代理戦争の形となった。

*4 理由の1つとしては、これまでの対立教皇の場合、ローマにいる方が正当と見なされがちだが、この時点ではアヴィニョンには70年間、教皇庁があり、その正当性は互角に見なされたためである。

また、百年戦争中であり、親フランス国家がアヴィニョン教皇を支持し、反フランスと中立国家がローマ教皇を支持するという図式にもなったが、実際には双方とも分裂には反対であり、それぞれの教皇の退位を求めていたのだが、両教皇とも退位を承諾しなかったため長期化することになった。

アヴィニョン教皇と教会大分裂(3)

教会大分裂というのは、2つの教皇庁が激しく正当性を争ったというより、双方が妥協点を見出そうとして成功せず長引いた過程なのである。

1394年にクレメンス7世が亡くなった際も、アヴィニョン教皇庁ではいつでも退位する覚悟のある者としてフランスではなくアラゴン出身のベネディクトゥス13世を選出している。

これ以降、ボニファティウス9世も自陣営のイングランド王、ドイツ王から退位を迫られたが、それを拒否しており、一方、1398年にフランスがベネディクトゥス13世の退位を求めたが、いつでも退位すると宣言していたはずのベネディクトゥス13世はこれを拒否したため、5年に渡ってアヴィニョンはフランス軍に包囲され、1403年のアヴィニョン退去以降は実質的に出身国のアラゴン他少数が支持するのみとなった。

一方のローマ教皇庁でも、1404年にボニファティウス9世が死去した際に、ベネディクトゥス13世が退位するのであれば、改めて合同で新教皇を選出することを提案したが、ベネディクトゥス13世が拒否したため、インノケンティウス7世を選出した。

インノケンティウス7世はナポリ王ラジスローの強い影響下におかれ、統合の障害となった。次いで1406年に選出されたグレゴリウス12世は、ベネディクトゥス13世が退位すれば自身も退位するとの条件の下で就任した。両陣営で継続的に話し合いが行われたが、それぞれの後援者の利害もあり、進展がなく、両陣営のかなりの数の枢機卿がそれぞれの教皇から離れて、1409年にピサで会議を開いて両教皇の退位を決定し新教皇アレクサンデル5世を選出した。

しかし、両教皇とも退位を拒否したため、3人教皇というさらに異常事態となった。

事態を収拾するために、神聖ローマ皇帝ジギスムントとヨハネス23世(アレクサンデル5世の後継者)の提唱で、1414年にコンスタンツ公会議(1414-1418)が開かれ、途中からグレゴリウス12世も全権代表団を送っている。1415年に3人の教皇の退位が提唱され、ヨハネス23世は一旦は了承したが、その後に離脱しようとして逮捕され、グレゴリウス12世の代表団も退位を了承した。ベネディクトゥス13世は拒否したが廃位されている。

新教皇マルティヌス5世が選出されたのはグレゴリウス12世の死後の1417年で、これにより大分裂は終了したと見なされた*5。既存の教皇の存在に対して、公会議が教皇の廃位と新教皇の選出を行ったため、これ以降、しばらく公会議主導の体制となったが、1431年のバーゼル公会議以降に公会議が分裂したため、再び教皇に主導権が移り、ルネサンス教皇たちが出現する。

*5 1417年以降もベネディクトゥス13世は故郷のアラゴンでは教皇と見なされており、彼の死後に後継教皇も選出されているが、もはやマイナーな存在だった。

現在のローマ教皇庁の正式な見解では、教会大分裂後のアヴィニョン教皇とピサ教皇は対立教皇とされているが、以上の経緯のようにその当時においては同等の存在として認識されており、むしろクレメンス7世やピサ教皇アレクサンデル5世、ヨハネス23世の方が、その当時ではもっとも支持が多かった*6。

*6 余談だがトリノの聖骸布(イエスの顔が写っているとされる布)が最初に世に現れた時、アヴィニョン教皇クレメンス7世は、これを描いたものとして明確に否定しているのだが、後にクレメンス7世が対立教皇とされたため、カトリック教会の正式な見解は現在でも示されていないことになっている。

教皇という存在はモラルの拠り所であり、何か問題が発生した場合は世俗の裁判などより、教会や最終的には教皇の判断が尊重されたが、アヴィニョン教皇庁以来、その権威は低下しており、さらに教会大分裂により、これが2つ存在したため、主張の違う両者がそれぞれの教皇に支持を求め、各地の紛争は調停されるどころか代理戦争として激化する弊害が生じた。また、2つの教皇庁は共に歳入不足になったため免罪符販売などに力を入れ、これも批判される材料となった。

ようやく統一された後も教皇の権威は回復せず、その影響力はイタリア近辺に留まり*7、教皇はイタリア内部の世俗的争い、自身の親族の繁栄、そして豪奢な生活*8を送ることに熱中するようになった。ルネサンス教皇は聖職売買(シモニア)、親族登用(ネポチズム)、免罪符販売などで代表され、モラルどころか腐敗と堕落を象徴する存在となり、宗教改革を起こさせることになる。

*7 調停者としての機能は半ば失い、対オスマン十字軍を提唱しても、元々関連国であるハンガリー、ベネチア、ポーランド、オーストリアなどが応じる程度だった。
*8 贅沢な暮らしは芸術の振興にはプラスとなる。

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