黄昏のナポリ王国

1381年に女王ジョヴァンナ1世を絞殺したドゥラッツォ家のカルロはナポリ王カルロ3世として即位した。まもなくアンジュー公ルイがアヴィニョン教皇クレメンス7世から王冠を受け、4万人ともいう大軍を率いて侵攻してきたが、カルロ3世はゲリラ戦法で抵抗し、1384年にルイが病死したため事なきを得た。

ローマ教皇ウルバヌス6世は、後に6人の枢機卿を逮捕し拷問にかけるなど、かなり性格に問題があり、西方教会大分裂も半ばは彼の個人的資質に反発した枢機卿たちがアヴィニョンで対立教皇を選んだことが原因だともいえる*11。また彼はナポリ王国出身であるため自らの利害もあってナポリに様々な干渉をし、ナポリ王にとっては臣下出身が宗主として振舞うことに感情的な反感があったようである。当初、ジョヴァンナ1世を廃位してカルロ3世を支持したが、まもなくカルロ3世とも不仲になり、カルロ3世はナポリ王国にきたウルバヌス6世をノチェーラ城に包囲した。6ヶ月後に教皇は脱出に成功したが、その後も自分の甥にナポリ王国を与えるために画策した。

*11 分裂自体は両陣営とも望んでおらず、アヴィニョン側はウルバヌス6世が亡くなれば再統一できると期待していた。

一方、1382年にハンガリー・アンジュー家のラヨシュ大王*11が亡くなっており、彼のハンガリー王国は長女のマーリアがその夫ルクセンブルク家のジギスムント(後に神聖ローマ皇帝)と共に継承し、ポーランド王国は次女のヤドヴィガがリトアニア大公ヨガイラ(ヴワディスワフ2世)と共に継承したが*12、カルロ3世はカペー・アンジュー家の男系としてハンガリー王位を主張し、1385年に以前から基盤を持っていたクロアチア、ダルマチアに入ってハンガリー王カーロイ2世として即位したが、翌年に故ラヨシュ大王の王妃(マーリア達の母)に暗殺された。

*11 母系からポーランド王位を継承しており、父からのハンガリーと2つの王位を持っていた。
*12 本来はどちらもマーリアが継ぐはずだったが、ポーランド貴族達はハンガリーとは別の君主を望んだため。

カルロ3世の息子ラジスロー*13[在位:1386-1414]は9歳で即位したが、彼の生涯はアンジュー公ルイ2世との王位争い、ハンガリーでの王位争い、そして教会大分裂もからんだ北イタリアと教皇領を巡る教皇との争いに明け暮れた。

*13 本来、ハンガリー王位を意識したハンガリー風の名前のためラスローと表示した方がしっくりくるが。

彼の即位に対して、ローマ教皇ウルバヌス6世は諸侯の反乱を煽動し、さらにアンジュー公ルイ2世*14を承認し、1387年にはラジスローに対する十字軍すら呼びかけており、幼いラジスローは摂政の母と共に城塞に篭らなければならなかった。

*14 アンジュー公ルイ1世の息子。妻のヨランドはアラゴンの王位僭称者で2人はアラゴン、シチリア、ナポリ、エルサレムの王位を称しており、4カ国の王だが支配している王国は1つも無いと揶揄されている。

しかし1389年にウルバヌス6世が亡くなり、ボニフェス9世がローマ教皇になるとラジスローをナポリ王として承認したが、その後も毒殺されかかったり、1390年から1399年に渡ってアンジュー公ルイ2世と戦わねばならなかった。ようやくアンジュー公が撤退したため、1403年頃にはハンガリー王位を主張してダルマチアに渡ったが、既にマーリアの夫ジギスムントの王位は受け入れられており、たいした成果は挙げられなかった。

その後は、ローマ教皇グレゴリウス12世の弱腰に乗じて、ローマや教皇領、北イタリアに関心を向け、盛んに侵攻したが、これに対して1409年にピサ教皇アレクサンデル5世*15はラジスローを破門して、アンジュー公ルイ2世にナポリ征服を要求した。しかし、1411年まで一進一退の攻防を続けたが結局、アンジュー公は撤退した。ラジスローは攻勢に転じて、ピサ教皇ヨハネス23世にナポリ王を承認させ、教皇軍旗手に任じられたが、1414年に病死した。3人の妻を娶ったが子供はおらず、王位は彼の姉で当時、既に41歳で子供のないジョヴァンナ2世[在位:1414-1435]が継承した。これにより王国の先行きは極めて不透明になる。

*15 教会大分裂を解決するためにピサ公会議で選出されたが、結局、ローマ教皇もアヴィニヨン教皇も退位しなかったため、3人教皇となってしまった。

ジョヴァンナ2世は1415年にフランス・ブルボン家のラ・マルシュ伯ジャック2世と結婚したが、ジャック2世は王としての権力を要求したため、ナポリ貴族の反発を受けフランスに帰り、ジョヴァンナ2世は側近のセルジアーニを愛人として寵愛し重用した。これは後に傭兵隊長ムツィオ・アッテンドロ・スフォルツァ*16の離反を招くことになる。

*16 スフォルツァ家の初代でミラノ公フランチェスコ・スフォルツァの父。傭兵嫌いのマキャベリは、君主論の中で、ムツィオがジョヴァンナ2世を裏切ったとし、傭兵に頼ることは最も馬鹿げたことであると述べている。

教会大分裂を解消したコンスタンツ公会議で選出された新教皇マルティヌス5世は宗主としてナポリに資金提供を要求したが、ジョヴァンナ2世がこれを断ったため関係は悪化し、教皇は1420年にアンジュー公ルイ3世にナポリ王位を与えたが、ジョヴァンナ2世はこれに対抗してアラゴン王アルフォンソ5世を後継者として支援を要請し、アルフォンソ5世は1421年にナポリに入城した。

しかし、まもなくアルフォンソ5世とジョヴァンナ2世の関係は悪化し、1423年にジョヴァンナ2世はアルフォンソ5世との約束を破棄して、アンジュー公ルイ3世を後継者に指名した。アンジュー公ルイ3世はジョヴァンナ2世の死を待っていたが、1434年に先に亡くなり、その弟のルネ*17がアンジュー公と後継者の地位を継承した。ジョヴァンナ2世は1435年に亡くなり、ナポリ王位はルネが継承した。

*17 後に薔薇戦争の主役の1人となるヘンリー6世王妃マーガレットの父である。彼は母のヨランドからアラゴン、シチリア、父からナポリ、エルサレムの王位を受け継いでいたが、実効支配できた国はナポリの短期間だけだった。

しかし、アラゴン王アルフォンソ5世が異を唱えて、ナポリに侵攻し、1442年にルネを追い払ってナポリ王に即位した。彼の死後、彼の庶子であるフェルディナンド1世[在位:1458-1494]がナポリ王位を継承したが、庶子の継承には異論も多く、教皇カリストゥス3世*18(アロンソ・デ・ボルジア)はアラゴン出身でアルフォンソ5世の側近だったにも係わらず、フェルディナンド1世の王位を認めず、教皇領として回収することを目論んだが、同年に亡くなっている。フェルディナンド1世は次の教皇ピウス2世からナポリ王位を承認されたが、1460年にはルネの息子であるロレーヌ公ジャン2世の挑戦を受け敗北した。しかし、傭兵隊長アレッサンドロ・スフォルツア*19やアルバニアのスカンデルベグ*20の救援により、これを退けることができ、その後もルネサンス期のイタリアの政治と教皇の思惑に振り回されながらも王位を維持した。しかし、百年戦争とその後のブルゴーニュ公との争いに勝利したバロワ朝のフランス王シャルル8世が、バロワ・アンジュー家の権利を継承してナポリに侵攻しイタリア戦争が始まった。その中で本家のアラゴン王家(スペイン王家*21)に併合されることになり、以降、イタリア統一までスペインの属国として、ヨーロッパの発展から取り残された感があり、現在でもイタリアの南北格差は深刻である。

*18 ボルジア家の立身の最初の人。彼の甥がアレクサンデル6世
*19 ミラノ公フランチェスコ・スフォルツァの弟、ペーザロ伯
*20 オスマン・トルコの侵攻に抵抗したアルバニアの英雄と呼ばれるが、アルフォンソ5世の援助を受けており、南イタリアに領地を受けた封臣でもあった。彼の死後、トルコに追われたアルバニア人は南イタリアに移住している。
*21 アラゴン王フェルナンド2世とカスティーリャ女王イサベル1世の結婚により連合国家となっている。

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