貨幣

貨幣については歴史や経済の教科書にも載っていることなので、いまさら感があるが、通しでは意外に理解されていないように思われるため少し記述してみる。

人々が物々交換を始めるとすぐに共通の基準となる商品が必要となる。A氏とB氏がお互いに相手の持っている物を必要とすることは滅多にないため、誰もが受け取る基準商品が存在することが望ましい。その基準商品に求められる条件は

1. 保存性が良い。保管している内に簡単に劣化、腐敗してしまうものは向かない。
2. 分割可能。必要とされる量が常に違うため、できるだけ細かく分割できることが望ましい。
3. 価値の変化が少ない。季節毎に大幅に価値が変わる様では安心して所有できない。
4. ある程度の量が存在する。あまり希少だと現物がなくて役に立たない。

これらの条件に合うものとして、例えば日本ではかって米、絹反物、砂金などが使われたが、世界中の多くの地域で共通に使われたのが、金、銀、銅の金属*1である。これらの金属はいずれも安定性が高く、量が限定されており価値の変化が少なかった。

*1 鉄も当初は貴重で貨幣として使用されたこともあるが、やがて豊富に生産されるようになり、なによりも錆びるため使われなくなった。他の金属は混ぜ物として使用されることはあったが主要材料として用いられることはなかった。

地金型コイン(貨幣2)

貨幣として金、銀、銅などの金属は、当初は砂金や小さな金属片、粒を計って取引されたが、毎度々、秤りを用意するのは面倒である。そこで、定量された分銅*2として製造されたのがコイン(硬貨)である。コインの表面にはその発行者と重量などを示す文字、紋様、肖像などが描かれたが、これらには偽造や表面の削り取りを防ぐ意味もある。

*2 (従って重量単位がそのまま貨幣単位になることが多く、ポンド、マルク、両なども重量単位である。)

当初は各地の富豪や権力者などが必要に応じてコインを作成したが、発行者の信用度がマチマチな様々なコインが混在するのは使い勝手が悪いため、より統一化、中央集権化が進むとコインの発行はより大きな権力者及び中央政権が実施するようになる。中華帝国やローマ帝国などでは、すでにそのようになっていたが、ヨーロッパでは中世に入ると再び、各地の地方権力(諸侯、都市国家)がそれぞれコインを製造し乱立するようになった。

元々、金、銀、銅の価値はそれぞれ違うもので、経済の規模が小さく閉鎖的な社会ではその価値の比を一定にすることも可能だが、他の地域と交易を行う規模になると、これらの価値の比は常に変動する可能性があり、金貨1枚が銀貨5枚と等価というように固定することはできない。そのため銀貨5枚の値の物を買うのに銀貨を持ち合わせない場合は金貨や銅貨を銀貨に両替しなければならない。その際に、活躍したのが両替商であるが、さらに、様々なコインが混じる場合は、それらも指定された現地の銀貨に替える必要がある。しかし、本来は分銅として簡便に使うことを目的としていたのに、これでは商業において非常に不便だった。

信用状(貨幣3)

そこで、1つの市場においては、その地の両替商や信用のある大商人がしばしば信用状を発行した。つまり、商品を市場に持ってきた人は商品の代価として信用状を受け取り、それを使って現地の特産品などの欲しい商品を買って戻る、あるいは次の市場に行くのである。信用状は市場の中を巡ることになり、必要があれば、発行した両替商や大商人が現金(コイン)に交換する。これがやがて経済規模が大きくなると、両替商や大商人は各地に支店を持ち、各支店でも交換できるようになり、また相互に提携することにより、お互いの発行した信用状を受け付けることができるようになった。こうなるとすでに銀行と呼んでもよい金融システムで、特に北イタリアで大銀行商人が生まれた。

十字軍の際に聖地に旅立つ人々は多額の旅費を用意するが、道中で多額の金銭を所持するのは危険であるため、それを現地の修道院に預けて預かり状を受け取り、その預かり状を各地の同系列の修道院で現金に替えることで旅を続けることができた。これを最も大規模に行ったのが聖地騎士団のテンプル騎士団で、フランス王フィリップ4世がテンプル騎士団を解体したのはその財産と金融システムを狙ったものだとの説もある。

このような信用状は紙幣の元祖のように思えるが、これらは現在の為替や手形の元であり、紙幣の起源はまた少し違っており後述する。

余談になるが、経典宗教(一神教)では同教徒同士の金銭の貸し借りで利子を取ることは禁止されていた。そのため、中世ヨーロッパでは異教徒であるユダヤ教徒だけが金貸しを行っていた(そして、そのために憎まれてもいた)のだが、実際には上記のように信用状の発行手数料という形で実質的な利子を取ることは可能で銀行も誕生しているのである。ちなみに、質屋もそのような抜け道であった。

本位制(貨幣4)


やがて近世に入り、中央集権化が再び進むとコインも統一のものが使われ、貨幣経済が回復するのであるが、次に問題になるのが相変わらず金、銀、銅の相場の変動である。本来はこれを固定したいのであるが、権力で強引に固定しても、価値の上がった貨幣は鋳潰され地金にされてしまう危険性がある。つまり金貨1枚が銀貨5枚と権力で固定しても、金が値上がりして金貨1枚の金の価値が銀貨6枚になれば、金貨を地金にして銀貨6枚と交換されてしまうのである。そこで、ある貨幣を本位貨幣とし、それ以外を兌換貨幣として本位貨幣と固定比率で交換する仕組みが考案された。例えば、銀貨を本位貨幣とした場合、金貨1枚に含まれる金が銀貨3枚分の価値しかなくても、金貨1枚を銀貨5枚に交換することを保証するのである。これなら金の値が5割値上がりしても地金にされることはないのである(その代わり贋金が作成される危険性が出てくるが)。

この兌換貨幣の考えを進めれば、金貨に金が含まれる必要もなく、陶器でも紙でも良いことになる。つまり、それが紙幣であるが、1つ問題がある。交換を保証しているのは発行者であるが、その政府は財政が悪化すれば兌換を停止する可能性があり、また外国の侵略や革命などで倒れる恐れがある。その場合、紙幣はただの紙切れになるが、金貨の場合、地金としての金の価値は維持されるため、所有者にとってより安全性が高いのである。つまり兌換貨幣の価値は、地金+発行者の信用度ということになる。従って、紙幣を発行するには、政府の信用度が相当大きい必要があり、紙幣の発行は比較的遅かった。

日本の藩札は世界でも早い方であり、幕藩体制はそれだけ強い権力を領民に及ぼしていたことが分かる*。江戸幕府は本位制の概念をもってなかったようであるが、概ね東国では金が中心、西国では銀が中心で1両=4分=16朱の固定制を建前としていたが、実際は両替商により相場での交換が行われていた。余談だが、ヨーロッパでは新大陸からの銀の流入のため銀の価値が下がっていたが、鎖国していた日本では、金、銀の交換比率はあまり変化しておらず、幕末の貿易自由化で多量の洋銀が日本に流入し、それらは金に交換されて持ち去られている。

* 実際、額面金額で通用したのは藩内だけで、藩の外ではその藩の信用に応じて割り引いて交換されていたという。

ところで純度が高い方が、コインの信用が高いと誤解される場合があるが、重要なのは含有量で、安定していれば純度は低くても構わない。ただ、しばしば財政が逼迫した政府は大きさをそのままに純度だけ下げて改鋳することがあり、その場合は当然、元の純度の高い方が価値がある。そのような同じ大きさ、同じ名称で純度の違いがあれば人々は純度の高いものを保管し、低いものを優先的に使うようになり、市場には低いもののみが出回るようになる。すなわち、「悪貨が良貨を追放する」のである。

信用貨幣(貨幣5)

本位コインとなる金属は流通量が多い必要があったため、当初は銀本位制が主流だったが、紙幣の流通が多くなると金属自体が流通する必要は少なくなるため、裏付けとなる本位金属の保管にあたって量が少なくて済む金に移行する国が増えてきた。金本位が主流となると、それに合わせた方が国際交易が円滑になるため、多くの国が金本位制に移行した。

しかし、兌換貨幣は発行者の信用が落ちると取り付け騒動が起きるなどの問題があるため、第一次世界大戦及び世界大恐慌より以降、次第に廃止され管理通貨制に移行し、一層、発行者の信用度が重要となった。政権の権力によって固定の価値を維持しようとしても、外国為替相場では政府の信用度はそのまま交換価格に反映し、経済が破綻した国の紙幣は著しく紙切れに近づいていき、物価はインフレとなり、政府はさらに高額の紙幣を発行しなければならなくなる*。

* よく物価が上がりインフレになるというが、実際には物価が上がっているのではなく貨幣の価値が下がっているのである。金に換算してみると、さほど変化していないことが分かる。

第二次世界大戦後、米国ドルは兌換を維持し世界の基軸通貨となったため、他の国はドルとの固定為替とすることで信用を維持する体制(IMF体制)となったが、財政が悪化した米国は1971年にドルの金兌換を廃止(ニクソン・ショック)したため、これ以降、各国の通貨は変動為替相場制となって現在にいたる。

現代ではクレジットカード、電子マネーなどが使用されるが、これらは紙幣、硬貨に代わる信用貨幣とも見なせる。

最新

ページのトップへ戻る