スイス建国伝説

スイス建国伝説(1) - ウィリアム・テル

中世欧州において、かなり異様な存在に見えるスイス誓約者同盟の建国に関して書こうと思ったのだが、意外なくらい材料がないことが分かった。

ウィリアム・テルを知らない人はいないだろう。帽子に礼をしなかったとしてオーストリア(ハプスブルク)の代官ゲスラーから、息子の頭の上に載せた林檎を矢(ボルト)*1で打ち抜けと命令され見事打ち抜いたが、矢を二本用意した理由を聞かれ、「息子に当たっていたら、お前を打ち抜くつもりだった」と答えて逮捕されるが、逃亡に成功して、後にゲスラーを襲撃して殺し、これを契機に森林三州の民衆が蜂起してオーストリア軍を追い払い、永遠の同盟を誓った(リュトリの誓い)のがスイスの元となったと言うのが大筋だ。

*1 しばしば、ロビンフッドのような弓で描かれるが、伝説ではクロスボウである。

建国の英雄ウィリアム・テルの実在性には疑問があっても、そのモデルとなった事件と反乱城砦の破壊などは史実だと思っていたが、年代はもちろん、テルの逸話のような事件はおろか、反乱があったかどうかも不明なのだ。

そもそも三州原初同盟の「リュトリの誓い」が1291年なのか1308年なのか、あるいはその後に創作されたものかすら明確ではない。1291年8月1日付*2の永久盟約書は現存しているのだが、後世に作られたとの説も根強い*3。

*2 一応、これに基づいて建国記念日(ナショナル・ディ)が決められている。神武神話に基づいた建国記念日よりはマシだろう。
*3 中世は文書の偽造も盛んだった。放射性炭素による年代推定では85%の確率で1252~1312年だとされており、近世以降の偽造ではないようだ。

1291年と1308年の両方で誓ったのかもしれないし、1291年の時に口頭のみの誓いだったのを1308年に改めて文書化し、日付は元の誓約の日にしたとも考えられる。しかし、伝説ではテルの逸話や反乱と共に「リュトリの誓い」が行われるが、1291年にも1308年にも目立った反乱や戦闘の記録は残っていない。

実はまともな文書は何一つ残っておらず*4、ブルゴーニュ戦争(1474 - 1477年)の勝利により国家として自信をつけた15世紀末から16世紀に歴史が書かれ、建国神話が作られたのが実情のようだ*5。もっとも中世においては、口伝によって歴史が言い伝えられ、近世に文書化されることは多い為、全く16世紀の創作とも言えないが伝説の域は超えていない。

*4 所詮、山中の田舎で文書の記録を残す習慣が無く、僻地である為、中央の年代記などには出てこない。
*5 ウィリアム・テルの名前は、1474年の「ザルネン白本」が最初だそうだ。

史実と言えるのは、1315年の「モルガルテンの戦い」とその後の「ブルンネンの盟約」からで、1318年にオーストリア公レオポルト*6とも休戦しており、事実上、これがスイスの建国のように思える。

*6 ヴィッテルスバッハ家ルートヴィヒ4世と皇帝位を争ったフリードリヒ美王(大空位時代 参照)の弟でスイス方面を任されていた。

スイス原初三州同盟の成立は、農民反乱と言った性格のものではなく、既にアルプスの交易路として力をつけたウーリシュウィーツは帝国直属地域となり*7、コミューン(宣誓共同体)を形成しており、交易の利権を守る為にウンターヴァルデンとも協力してハプスブルク家の勢力拡大策と戦ったというのが実際だろう。その性格は、1332年にルツェルン、1351年にチューリッヒ、1353年にベルンの各都市が加わって、一層明確になる*8。

*7 都市ではないだけで、帝国自由都市と似たような物である。
*8 グラールスとツークはハプスブルク家から勝ち取った形だが、正式加盟して八州同盟となった。

一見、中世の封建世界において、スイスのような共和制連邦の国が生まれたことは奇異に感じるが、実はそうでもないのだ。

原初三州と八州同盟のスイス誓約者同盟は都市同盟と同じような物で、各地に似たような物はあったのだが、目的を果たして解散するか、意義を無くして自然消滅するか、意見の違いから分裂するか、敗北して消滅するかで、やがて中央集権化した国家に吸収されている。

本質的に壁に囲まれた都市は閉鎖的であり、都市同士はライバルでもあるため、協力関係を永続するのは難しいのだが*9、スイスでは中核の三州が都市ではなく、都市とは補完関係*10だったことと、さらに傭兵としても名高いスイス歩兵により軍事的に成功した為、継続できたのだろう。

*9 チューリッヒやベルンはしばしば独自の行動を取っており、同盟から脱退しそうになったこともある。イタリアではミラノ、ベネチア、フィレンツェは他の都市を支配下に入れて地域国家になっている。
*10 森林州が農産物や傭兵・労働者を提供し、都市が技術や工芸品を供給する。

スイス建国伝説(2) - アーノルド・フォン・ウィンケルリード

ウーリ、シュウィーツ、ウンターヴァルデンは森林州と呼ばれるように、山と森と谷の地域であり、比較的、貴族が少なく、自由農民が多く、古くから自治が行われていた。

13世紀の初頭に、ゴットハルト峠に通称「悪魔の橋」が掛かりドイツとイタリアを繋ぐ交易ルートが開けると、ルツェルン湖畔の一帯は繁栄し、ウーリが1231年、シュウィーツが1240年に帝国直属になっている*11。

*11 シュバーベン公でもあるホーエンシュタウフェン家の皇帝の方針だった。

シュバーベン南部である現在のスイス地域には、ツェーリング家、キーブルク家、ハプスブルク家の支配地域があったが、13世紀初期(1218年)にツェーリング家が断絶し、その多くを相続したキーブルク家も13世紀中頃(1263年)に断絶し、ハプスブルク家がその多くを受け継いだが、女系相続は争いが生じ易く、さらに皇帝フリードリヒ2世はローマ教皇と激しく争い、ホーエンシュタウフェン家も13世紀後半(1268年)に滅亡してシュバーベンには権力の空白が生じ、多くの地域・都市が独立色を強めていた*12。

*12 例えば、チューリッヒとベルンはツェーリング家断絶の1218年に帝国都市になっている。

大空位時代の後、1272年にハプスブルク家のルドルフが皇帝となったが、ルドルフはボヘミア王オトカル2世との争いや帝国全体の掌握に注力した為、スイスには大きな関心を払わず、また皇帝として帝国直属州の権利を尊重したと思われるが、1291年に亡くなると嫡男のアルブレヒト(1世)は帝位を世襲できず、ハプスブルク領の経営・拡大に力を入れ始めた為、警戒した森林三州が盟約を結んだと思われる。

アルブレヒトは1298年にドイツ王となったが、1308年に相続の不満から甥のヨハンに暗殺されており、1308年の盟約説はこれに関連しているのだろう*13。

*13 アルブレヒト1世の在位中に、何らかの争いがあったことは推測できる。

この後、1309年にルクセンブルク家の皇帝ハインリッヒ7世から三州原初同盟は改めて帝国直属を認められているようだが、ハインリッヒ7世が1313年に死去すると、1314年にヴィッテルスバッハ家のルートヴィヒ4世とハプスブルク家のフリードリヒ美王が支持者のみの選帝会議を開いて、それぞれ選出された為、両派の争いが始まった。

三州原初同盟は反ハプスブルクでルートヴィヒ4世を支持したが、地盤であるスイスで公然と反抗する原初同盟はハプスブルク家にとって目の上の瘤のような存在だっただろう。

1315年の「モルガルテンの戦い」の直接の原因は、長年、確執してきたシュウィーツとアインジーデルン修道院との牧草地を巡る争いで、シュウィーツがハプスブルク家の保護下にあった修道院を襲った為だが、報復にフリードリヒ美王の弟レオポルトが、かなりの大軍を率いて侵攻したのは、この機会に一気にスイスを制圧しようとの意思だろう。戦闘の詳細は後世に書かれたものしかなく不明だが、原初同盟軍は山道で奇襲して大損害を与えることに成功したようだ*14。勝利の興奮が醒めやらぬ中で再確認された「ブルンネンの盟約」が永久同盟の実際の発端だろう。

*14 一説では、ハルバート(斧槍)が初めて使用された戦いである。

1322年の「ミュールドルフの戦い」でルートヴィヒ4世が決定的な勝利を収めてフリードリヒ美王を捕虜とし、原初三州の地位も安泰となった。1339年の「ラウペンの戦い」は、ベルン対フリブールの都市の争いに、それぞれ三州同盟とハプスブルク家が加勢した形だが、この勝利によりベルンと三州同盟の関係は密になり、後の加入に繋がる。

1346年にルートヴィヒ4世が廃位された後もルクセンブルク家のカール4世が選出され、皇帝直属地に対するハプスブルク家の権利は否定されることになり、三州はルツェルン、チューリッヒ、ベルン等と協力し、ハプスブルク領のグラールスとツークを奪うなど、むしろ攻勢に出ている。

1332年にルツェルン、1351年にチューリッヒ、1353年にベルンの都市が加わって、1353年から八州同盟となった。しかし、原初三州は常に共同歩調を取り一つの政治的実体となっていたのに対して、その他は原初三州との個別の軍事同盟関係で、一つの実体を形成していなかった。

しかし、1386年の「ゼンパッハの戦い」でハプスブルク家に完勝したのが、次の段階への契機となり、1393年には八州による条約が結ばれ、他の州の承認なしに勝手に戦争を始めることが禁止され、その後、定期的な同盟会議が開かれ国家に向かっていった。ブルゴーニュ戦争(1474-1477年)の勝利の後、1481年に新たな条約が結ばれ連邦として、さらなる拡大を目指すことになり、1499年からのシュヴァーベン戦争ではハプスブルク家の皇帝マクシミリアン1世に勝利して、神聖ローマ帝国からも実質的に独立した国となる。

こうして見てくると、何故、建国伝説が作られる必要があったかが判ってくる。スイス同盟の州の中では、チューリッヒとベルンが人口、経済力、領土的にも大きいのだ。原初三州は森林州であり、交易路として栄えても多寡は知れており、しかも15世紀には地中海、北海の航路が中心となり、アルプス交易の重要性は減少していた*15。

*15 地中海からロンドンまではイタリア商人、ロンドンからバルト海まではハンザ商人の手で交易が繁栄していた。

ウィリアム・テルと「リュトリの誓い」の伝説が無ければ、首都ベルンや最大の都市チューリッヒが周辺の都市や森林州と盟約を結んだ八州同盟がスイス連邦の元だと歴史に書いても不思議はないのだ。

しかし、都市は閉鎖的な性格を持ち自侭な行動を取ることもあり、1440-46年にはチューリッヒが独自の拡張路線を取ろうとして他の盟約州と戦争に及んでいる。

15世紀の終わりまで、八州同盟は軍事同盟であり、精強で知られたスイス歩兵の威力により、それぞれの州は国として独自に他の都市・地域と同盟を結んだり領土を拡張しており、放っておけば分裂を起こす危険性を孕んでいた。

その為、さらなる拡大に当たって国家の基盤を固めるために、ウィリアム・テルの伝説で原初三州の地位と正当性をドラマティックに演出し、1386年の「ゼンパッハの戦い」のアーノルド・フォン・ウィンケルリードの伝説*16で、八州の中心的地位と愛国心を強調する必要があったのだろう。

*16 身を捨てた突撃で敵の隊列に突破口を開き、勝利を導いたとされる伝説の戦士で、テルと共にスイスの代表的英雄とされている。

最新

ページのトップへ戻る