女を巡るカペー家とプランタジネット家の因縁 ベルトラード・ド・モンフォール

フランス王家のカペー家とイングランド王家になったプランタジネット(アンジュー)家は、百年戦争などの長い抗争を続けたが、この両家には意外な因縁が過去にあった。

昔々、フランスのノルマンディに絶世の美女がいた。ノルマンディの貴族モンフォール家*1の姫君ベルトラードは才気煥発で美貌の持ち主であり、親の決める同格の家ではなく、格上の王侯と結婚する野心を持っていた。

*1 後にアルビジョワ十字軍のシモン、第二次バロン戦争のシモン・ド・モンフォール、ブルターニュ継承戦争のジャン・ド・モンフォール等を輩出する。

その美しさの虜となったのが、比較的、新興の家だが勢力拡大中のアンジュー伯フルク4世であり、何度か結婚を繰り返して女好きとも言われていた彼は、ベルトラードを妻に迎えた。

二人の間には息子のフルク5世も生まれ仲睦まじかったが、パリに行った際に、当時のフランス国王フィリップ1世の目に留まり、既に王妃が居たが修道尼院に送り込んで*2、何とベルトラードを誘拐*3して王妃とした。

*2 まだ教会の力が余り強くない時代のため、有力者なら自分の意思で離別することが多かったが、当然、教会の非難を受けることになる。
*3 この時代の誘拐は、女性の保護者(父、夫)の許可を得ず連れ去ることで、本人の意思は関係ない。

力づくで誘拐したという説と、ベルトラードが自分でフィリップ1世の元に行ったという説があるが、当時のフランス王の実力を考えるとアンジュー伯と真っ向から対立する行為を取るとは思えず*4、ベルトラードは少なくとも王妃となって満足だったようで、後にフルクとフィリップの仲も取り持っていることを見ても、ベルトラードが望んだのだろう。

*4 フランス王の主敵はイル・ド・フランスに隣接するノルマンディ(イングランド王)であり、アンジューとは対ノルマンディで同盟関係にあることが多かった。

それでも王の略奪結婚はスキャンダルであり、前王妃の訴えもあって、リヨン大司教は前王妃との「婚姻の無効」を認めず、ベルトラードとの結婚を無効とした。

王夫妻は一旦は別居するが、教皇に上訴し、同居・別居を繰り返し、遂に教皇ウルバヌス2世に破門され、フランスは聖務停止となった*5。それでも2人は離婚せず、1104年に別居することを宣言して破門を解かれたが、その後も控えめにしながらも宮廷で同居を続けていた。

*5 クレルモンの教会議で、第一回十字軍を呼び掛けるついでに破門した。依然として、神聖ローマ皇帝と対立したまま、フランス王の破門に踏み切ったのは、十字軍への熱狂的な支持に自信を持ったからだろう。

フランスで最高位の女性の地位に就いたベルトラードは、さらにフィリップ1世との間に生まれた息子(フィリップ、フルリー)を王位に就けることを望み、イングランド王ヘンリー1世に王太子ルイ(6世)の逮捕を願ったり、暗殺しようとしたと言われる*6。

*6 しかし、記録を書く人間は大部分が聖職者で、教会の意に反して結婚を続けたフィリップ1世とベルトラードには辛辣であり、またサンドニ修道院長のシュジュールはルイ6世の親友・側近だったため、悪く書きがちである。

1108年にフィリップ1世が死去すると、ベルトラードの息子たちは、王太子ルイの戴冠を阻止するためにランスへの道を妨害したが、ルイ6世はオルレアンでサンス大司教により戴冠した*7。この後は、ベルトラードは宮廷を離れ、女子修道院を建立して1117年に死去するまで静かに暮らしたようだ。ベルトラードの息子たちについては、詳しいことは分からないが、冷遇され子孫も残さなかったようである。

*7 フランス王はランスで戴冠することが慣例だったため、後にランス大司教から抗議を受けることになる。

しかし、末娘のセシルは、第1回十字軍でアンティオキア公国を立てたボヘモンが1105年に欧州に支援を集めに来た際に、その甥のタンクレートと結婚しており、タンクレートは1111年にアンティオキア公となったが、翌年亡くなり、死ぬ前に、セシルをトリポリ伯ポンスと結婚させた。セシルとタンクレートの間には子が無かったが、ポンスとの間にはトリポリ伯レーモン2世が生まれている。

一方、妻を奪われた(逃げられた)フルク4世は、それまで5人の妻と結婚したにも関わらず、新たな結婚をしなかったのは、ベルトラードに未練があったのかもしれない*8。長男のジョフロワ・マルテルと次男のフルク(5世)が居たため、結婚する必要がなかったからでもあるが、前妻の子であるジョフロワ・マルテルは父への反抗を繰り返して1106年に戦死し*9、1109年にフルク4世が亡くなった後は、ベルトラードとの子であるフルク5世がアンジュー伯となった。

*8 教皇の要求で、フィリップ1世とベルトラードが別れれば、戻ってくる可能性もあるだろう。
*9 その背後に、ベルトラードとフルク5世の画策があったとの噂もある。ベルトラードに対する悪評の一つで信憑性は定かでないが、置き去りにした子のフルク5世とも繋がりを保っていたことが伺える。

フルク5世は、母のスキャンダルのせいか十字軍への関心は高く、1120年頃にも聖地に行ってテンプル騎士団の援助を行うなどしていたが、息子のジョフロワとイングランド王ヘンリー1世の跡継ぎ皇后モード*10の結婚を取りまとめた後に、1131年にボードアン2世の跡継ぎメリザントと結婚してエルサレム王になり、夫のトリポリ伯ポンスへの支援を求めてきた異父妹セシルと対面している。

*10 神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世の皇后で、アンジュー伯妃になった後も、そう呼ばせたため、後世にその名が残った。(もしもハインリッヒ5世に嫡男がいたら 参照)

ルイ6世肥満王は、イル・ド・フランスの統治を回復し、王太子のルイ(7世)を南部の巨大な半独立王国と言えるアキテーヌ公国の跡継ぎアリエノールと結婚させて、王権強化の嚆矢と見做されたが、ルイ7世は修道士と呼ばれるように敬虔で地味な人物で、積極的で派手好きのアリエノールとは合わず、第二回十字軍でのトラブルの後に離婚(婚姻の無効)したが、王の許可なく再婚しないとの約束にも拘らず、2週間後にアリエノールはアンジュー伯ジョフロワと皇后モードの息子アンリと結婚した。フルク4世の曾孫が、フィリップ1世の孫に意趣返しをしたと言えるだろうか?

アンジュー、ノルマンディ、アキテーヌの大領主となったアンリは、ヘンリー2世として母の権利のイングランド王位も継承してアンジュー帝国を築き、以降、プランタジネット家とカペー家は宿命のライバル関係となっていく。

一方、崖っぷちのエルサレム王国はフルク5世の孫のシビーユが女王で、反対派(貴族派)のリーダーがセシルの孫のトリポリ伯レーモン3世だった。シビーユは従兄弟のヘンリー2世にしきりに援助を要請しており、1187年のヒッティンの戦いでも多くの傭兵の費用を負担しているが、大敗してエルサレム王国は崩壊した。ヘンリー2世の子のリチャード獅子心王第三回十字軍でエルサレム回復を目指したが果たせず、王位も断っており、エルサレム王位はシビーユの妹イザベルの系統に伝わっていく。

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