第4回十字軍

第4回十字軍はその本質を忘れた最悪の十字軍と見なされがちである。つまり、エコノミックアニマルのベネチアに騙され、同じキリスト教のビザンティン帝国を攻略した十字軍の風上にもおけない存在だと。また、これ以降、十字軍は初期の宗教的情熱から経済的利益を求めてエジプトなどを攻撃するものに変質したといった説明をしばしば見ることがある。

実のところ、第4回十字軍の行動はそれまでの十字軍の流れから見ても、それ程、異常な行動ではなく、これ以降に方向が急激に変わったわけでもない。

ビザンティン帝国との関係は第1回十字軍の頃から悪く、ビザンティンから見れば十字軍は自分たちの失った領土をイスラム勢力から横取りして自分のものにし、さらにせっかく維持したイスラムとの平和を壊す厄介者であり、十字軍にして見れば、同じキリスト教徒でありながら満足な支援をせず、時にはイスラム側に通じていることすらある信頼できない存在で、ビザンティンへの怒りはつのっていた。いっそ、ビザンティンを征服し、そこを根拠地にするという考えは以前からあったのである。

第3回十字軍で英雄と称されたリチャード獅子心王は、シチリアで妹婿のシチリア王と一戦を交えメッシーナを占領し、キプロス島ではビザンティン系の太守の行為に怒り、これを征服している(後にギー・ド・ルジニャンに与え、これはキプロス王国になっている)。

第4回十字軍は、船賃の一部としてベネチアの頼みに応じて、ハンガリー領の都市ザラを攻略し、ビザンティン皇子アレクシオスの頼みに応じてコンスタンチノープルを攻略し、やがて彼が約束の報酬を払わなかったことに怒り、ビザンティン帝国を征服してカトリックの東ローマ帝国であるラテン帝国を作った。

この2つにそれ程、大きな違いはあるだろうか?十字軍は出発時から十字軍であり、その途中でキリスト教徒同士で争うことは禁じられていたが、諸侯が互いに争っていた時代であり、実際には決して珍しいことではなかった。リチャードの行為も謂わば行きがけの駄賃という風に見なされていた。

ザラの攻略に対して教皇イノケンティウス3世が十字軍を破門しているが、これはハンガリー王が主要国で最も教皇に忠実なカトリック君主だからで、ビザンティンを征服した時は、むしろ念願の東西教会再統一ができたことを喜んでいる。十字軍をもう一度破門したのは、彼らが旧ビザンティン勢力の反乱やブルガリア帝国の侵攻の対処に手間取って*聖地に向かわなかったからである。

* 手間取るというより、ブルガリアに大敗して初代ラテン皇帝ボードワン1世が捕虜になっており、聖地に向かうどころではなかった。本来の予定としてはラテン帝国を根拠地としてエルサレムを攻略するはずであった。

1187年にエルサレム王国が消滅して後、十字軍(カトリック)勢力は海岸沿いにいくつかの都市を確保しているだけの状態で、これではエルサレムの攻略や確保が難しいことは第3回十字軍の経験から明らかになっている。従って、以降の十字軍がまずアイユーブ朝の本拠地であるエジプトを目指したのは単なる領土と財宝狙いではなく根拠地の確保であった。特に第5回十字軍の途中で、イスラム側がエルサレムの城壁を壊して無防備都市状態にしたため、エルサレムを占領してもそれを防衛することができなくなっており、一層、周辺の根拠地の確保が必要になっている。

また、これ以降、同じキリスト教徒であるアルビ派(カタリ派)へのアルビジョワ十字軍や教皇と対立した皇帝フリードリヒ2世、シチリア王マンフレート、アラゴン王などへの出兵を十字軍と称するようになっているが、これとて十字軍が本質的に教皇権とカトリック圏の拡大を目的としたものであることは、レコンキスタの十字軍認定や北方十字軍で既に明らかになっている。

結局、第4回十字軍とラテン帝国の失敗は強力なリーダーがいなかったことだろう。モンフェラート侯は十字軍では有名な家系だがそれ程有力な諸侯ではなく、また早くから皇帝位を狙っていたため警戒されており、ベネチアは商人の国で諸侯のリーダーにはなれず、シャンパーニュ伯がいれば、フランス王、イングランド王の甥であるためそれらの支援が期待できたが、彼は参加前に病死しており、ラテン皇帝となったフランドル伯ボードワンは、有力諸侯ではあるがフランス王とは対立しており、その支援は期待できなかったのである。

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