シチリア王国

シチリア王国(1) - もう1つのノルマン征服

ノルマン人というのはヴァイキング(ノルト人)の一派で*1、かっては漠然と北方の人としてノルト人全般を指したと思われるが、ノルマンディ*2に定住してからは、ここから広がったフランス語(ノルマン・フレンチ)を話す人々をノルマン人と呼んでいる。

*1 語源から言うとノルウェー方面がノルマン人で、デンマーク方面がデーン人であるが、他の地域の人々は特に区別せず、自分達の言葉で適当に呼んでいる。
*2 ノルマン人が定住したからノルマンディなわけだが・・・

11世紀は封建制が確立し、戦乱から社会が少し安定してきた頃で、相変わらず領主間の小競り合いは多かったが、徒手空拳の者が戦いで大規模な領土を得ることは難しくなっていた。そこで、所領を継げない騎士・貴族の次男以下は戦いを求め、フランスの騎士はスペインのレコンキスタに参加し、ドイツの騎士は東方のスラブ人・バルト人地域の征服に向かったが、ノルマンディのノルマン人は船を活かして島国のイングランドや南イタリア、ビザンティンに向かい傭兵となった。

ノルマン征服というとイングランドが有名で、エドワード懺悔王のサクソン王朝が断絶した際に、ノルマンディ公ギヨームが継承を主張して、サクソン会議で選出されたハロルド王を1066年にへスティングスの戦いで破って一気に王位就いたものだが、それ以前からノルマン人がイングランドで活躍していた基盤があった*3。

*3 デーンロウ地域にはデーン人が住み、へスティングスの戦いの前にノルウェー王も来襲して王位争いに加わっていた。これらとノルマン人は元は同じようなものだが、この頃には違うグループという認識があり、デーン人と対抗するエドワード懺悔王を支援していた。

一方、南イタリアではビザンティン帝国、サラセン(イスラム・アラブ)人、ランゴバルト人*4がそれぞれ割拠して争っており、それに神聖ローマ皇帝、ローマ教皇が干渉して、さらに争いを複雑にしていた。その中で、ノルマン人の小貴族達が傭兵として活動しながら個々に勢力を広げ、やがてオートヴィル一族をリーダーとしてシチリア王国を立てるのである。

*4 北イタリアにランゴバルト王国があった頃に、その宗主下でランゴバルト人の公国が作られていた。

伝説によると、南イタリアに最初にノルマン人が到来したのはAD1000年頃のことで、エルサレム巡礼帰りのノルマン人が、イスラム勢力の攻撃を受けていた地元のランゴバルト貴族に加勢してこれを追い払い、留まるように勧められたのを断りノルマンディに帰国したが、その後、代わりに同郷のノルマン人が次々に南イタリアに来てイスラム勢力と戦うようになったとのことである。

これは、たぶん十字軍の流行に乗って、南イタリア征服を正当化するために作られた後付けだろう。ノルマン人の活動範囲は広く、イスラム勢やビザンティン勢との戦いが絶え間なく、傭兵の需要や征服の余地がある南イタリアに向かうのは、ごく自然のことだったはずだ。

当時の南イタリアはカラブリアとプーリャがビザンティン領で、サレルノ、ベネベント、カプア、スポレートにランゴバルト貴族の公国があり、シチリア島はサラセン人の小侯国が割拠していた。

ビザンティンやランゴバルト領主間の争いの中で傭兵として雇われながら、ノルマン人のグループは少しづつ勢力を広げ、1030年にラヌルフ・ドレンゴットがアベルサ伯となり南イタリアに最初の基礎を築き、1035年にオートヴィル家*5の長兄ギョーム、ドロゴ、オンフロワの3兄弟がアベルサにやってきた。

*5 ノルマンディの小貴族であるオートヴィルのタンクレートには12人の息子がおり、その多くは南イタリアで運を開くことになった。ノルマンディに残った者は、1066年のノルマン・コンクエストに参加してイングランドで領主となり、その子孫は1086年のドームズデイ・ブックに記載されている。また、1154年に別の子孫がヘンリー2世と共にイングランドに来てノフォークに所領を得ている。

1038年にビザンティン皇帝ミカエル4世がランゴバルト貴族も糾合してシチリアのサラセン人を攻めた際に、オートヴィル三兄弟もサレルノ伯グィマールの下で参加し、ギョームはシラクサ包囲戦で敵のイスラム領主(エミール)を討ち取り、「鉄腕」の勇名を得ている。

シチリア遠征の際の戦利品の分配を巡ってノルマン勢とビザンティンの間に対立が生じ、ランゴバルト貴族のベネベント公を名目上のリーダーとしてノルマン勢は、1040年からビザンティンに対して反乱を起こし、オリヴェントの戦いから連戦連勝し、ビザンティン領のプーリャ、カラブリアの多くを征服した。

1042年には、サレルノ伯グィマールがベネベント公に代わって新たなリーダーとなってメルフィで大会議を開き、グィマールがプーリャ&カラブリア公を名乗り、その下にプーリャ伯に任じられたギョームとアベルサ伯ラヌルフ・ドレンゴット、他のノルマン人リーダー達が付く体制とし、翌年支配地を12に分けて封建領地とし、ドレンゴット、ギョーム、ドロゴなどのノルマン人リーダーに分配された。

シチリア王国(2) - ロベール・ジスカール

1046年にギョームは死去し、ドロゴがその地位を継いだ。この頃からノルマン人は傭兵を止め、アベルサ伯(ドレンゴット家)とプーリャ伯(オートヴィル家)の下で征服戦争に専念し始め、また弟のロベール(ジスカール)*6が到来している。

*6 兄の3人とは母が違う。弟のロジェとは同母。ジスカールは狡猾という意味の仇名。

1047年に神聖ローマ皇帝ハインリッヒ3世が南イタリアに遠征し、ノルマン勢の征服地を公式に承認したが、グィマールからプーリャ&カラブリア公を取り上げ、アベルサ伯とプーリャ伯を直臣にした。ランゴバルト貴族を通してではなく、直接ノルマン勢を支配しようと考えたのだろう。

ノルマン勢の脅威の前にビザンティン勢力はローマ教皇に支援を求めていた。教皇レオ9世もノルマン勢の教皇領への侵入を恐れると共にコンスタンティヌスの寄進状*7に基づいて南イタリアの宗主権を有すると考えており、ランゴバルト貴族とも結びついて陰謀を企てたようで、1051年にドロゴが暗殺され、その跡をオンフロワが継いだが、まもなくグィマールも暗殺されたため、オンフロワがノルマン勢全体のリーダーとなった。

*7 現在では偽書であると判定されており、当時でもコンスタンティノープル総主教は疑いをもっていたが、レオ9世は本物と信じ(ようとし)ていた。これにより、東西教会の分裂が決定的となっている。

混乱に乗じて教皇レオ9世は自らランゴバルト貴族達を糾合して南イタリアに侵攻したが*8、オンフロワはリシャール・ドレンゴットと共にノルマン勢をまとめ、1053年のチヴィッターラの戦いでこれを破り、ベネベントにいたレオ9世を捕虜にしている。これによりノルマン勢の征服は一層、進み、また、この戦いでロベール・ジスカールが活躍し頭角を表してきた。オンフロワは1057年に亡くなる時に自分の幼い息子達の後見をロベールに頼んだが、彼は自分が跡を継いでしまった*9。

*8 教皇の権威によりノルマン勢が戦わずに降伏すると思っていたようだ。ノルマン人は権威を利用することは知っていたが、権威自体を敬うことはなかった。
*9 オンフロワの息子達は後にロベール・ジスカールへの反乱の首謀者となっている。

ドイツでは1056年にハインリッヒ3世が死去し幼いハインリッヒ4世が跡を継いでおり*10、ロベール・ジスカールは、名目上の宗主を皇帝から教皇に乗り換え、1059年に教皇ニコラウス2世からプーリャ、カラブリア、シチリア公に封じられ、皇帝権の空白とその後の皇帝と教皇の対立に乗じて、南イタリアのビザンティン領、サラセン人の小侯国が割拠するシチリア島、さらにはギリシアのビザンティン領にまで手広く攻撃を始めた。

*10 カノッサへの道 参照

カラブリアの最後のビザンティン拠点レッジョを奪うと、1061年から弟のロジェ(1世)と共にシチリア征服に乗り出し、1071年にパレルモを奪い、ロジェはロベールの宗主下でシチリア伯となる。ロベールは南イタリア各地を転戦し、主要な戦い以外はシチリアはロジェが担当した。1086年までにノートを残してシチリアを征服し、1091年にはノート、さらにはマルタ島も支配下に入れた。

一方、ドレンゴット家のリシャールもカプア、サレルノと争ってサレルノ公国の大部分を奪い、1062年にはカプアを征服してカプア公となり、カンパニアに大勢力を築いた。教皇ニコラウス2世を支持して対立教皇ベネディクト10世を攻めてカプア公&アベルサ伯を正式に承認され、その後もヒルデブラント(グレゴリウス7世)らの教皇庁改革派に協力し、1064年にはガエタも支配下に入れてローマに影響力を有するようになった。

プーリャのノルマン諸侯の反乱をドレンゴットが支援し対立することもあったが、サレルノの攻略やナポリの包囲には協力して当たってもいる。サレルノやナポリへの攻撃は教皇グレゴリウス7世を怒らせたが、皇帝ハインリッヒ4世との対立*11の中でノルマン人の支援が必要なため、1080年にはアブルツォ南部の支配を承認されている。

*11 カノッサからの道 参照

1071年にプーリャに残る最後のビザンティン拠点バーリを奪っていたが、ビザンティンはしばしばプーリャの反乱の後援を行っていた。1081年から息子のボエモンと共にギリシアに遠征し、コルフ、ドラッツィオを占領し、ビザンティン皇帝アレクシオス1世と戦いこれを破ったが、1083年に神聖ローマ皇帝ハインリッヒ4世がローマを攻めると教皇グレゴリウス7世に呼び戻され、ローマに進撃してサンタンジェロ城に篭る教皇を救出し、その後にローマ略奪*12を行っている。

この間にギリシアの占領地は失われており、1085年に再度ギリシア遠征を行うがその途上で病死した。

彼は堂々とした偉丈夫で戦場の勇士として知られたが、若い頃は山賊をし、兄達とも争うなど獰猛で、同時に狡猾、邪悪とも評価されていた。彼の代で南イタリア、シチリアの大半を支配下に入れており、シチリア王国の実質的な創始者と見なされている。

*12 ローマは数限りなく占領されているが、教皇の膝元だけに、カトリックによる大規模な略奪はこの時と1527年の皇帝カール5世の傭兵軍(かなりのプロテスタントが含まれているが)のみである。

シチリア王国(3) - ロジェ2世

1085年のロベール・ジスカールの死後、長男のボエモンとロジェ・ボルサ*13が跡を争うが、シチリア伯ロジェ1世はロジェ・ボルサを支援したため、ボエモンはタラントなどを確保したが、プーリャ公位はロジェ・ボルサが継ぎ、一族のリーダーシップはロジェ1世が担った。ボエモンは1096年からの第1回十字軍に参加して、アンティオキア公国を創設する。

*13 ボエモンの母は離婚したため、教会法ではボエモンは庶子になる。ロジェ・ボルサの母はサレルノ公の娘で血統からくるステータスが高かった。

一方、カプアでは1078年にリシャールが死去し息子のジョルダーノが跡を継いでおり、ロジェ・ボルサとボエモンの争いでは後者を支援している。またグレゴリウス7世の死後、ベネベントの修道院長を推して教皇ヴィクトル3世とし、ローマに居た対立教皇クレメンス3世を攻撃するなど教皇庁に大きな影響力を持ったが、ヴィクトル3世が1087年に亡くなると影響力を失い、1090年頃に亡くなっている。その後はカプアの反乱で、後継者のリシャール2世が一時期、追放されたり、短命の君主が続いたため、その影響力は減少しプーリャ公の宗主下に入ったが、オートヴィル家の対抗馬として存在感は残っていた。

1101年にロジェ1世が亡くなると息子の8歳のシモーネが継いだが4年後に死去し、1105年に9歳のロジェ(ルッジェーロ*14)2世がシチリア伯となり、当初は母が摂政を務めたが、1112年から親政を始めた。

*14 フランス系であるため、フランス風発音で表記しているが、この辺からイタリア風表記にすべきかもしれない。もっとも、シチリア王国の宮廷語はフランス語(ノルマン・フレンチ)であるため、当人達はフランス語で呼ばれていただろう。

1117年にロジェ2世の母アデレードが嫡子のいないエルサレム王ボードゥアン1世と結婚した。これは、ロジェ2世のエルサレム王継承も視点に入れてのことだったと思われるが、教皇の横槍が入り、まもなく無効とされた。ロジェ2世はこれを侮辱と感じ、以降、十字軍とは距離を置いたといわれる*15。

*15 もっとも、宗教的に無関心なノルマン人は最初から十字軍には熱心ではなく、ボエモンも明らかに領土狙いだった。

1127年にプーリャ公ギョーム*16が亡くなると、教皇ホノリウス2世はシチリアとプーリャが統合することに反対して、ドレンゴット家のカプア公ロベール2世を支援して対抗させたが、既にオートヴィル家に対抗する力はなく、ロベール2世はまもなく屈服し、ロジェ2世はプーリャ&カラブリアを手に入れ、カプアを宗主下において、南イタリアをほぼ手中に収めた。

*16 ロジェ・ボルサの子。ひ弱、怠惰でロジェ2世に頼っており、嫡子はいなかった。

1130年にイノケンティウス2世と対立教皇アナクレトス2世の二人の教皇が立つとロジェ2世はアナクレトス2世を支持してシチリア王位を得たが、この後10年に渡り、2人の教皇の対立や王位に対する反感による争いに巻き込まれる。

当初は各地の王侯の支持を得たアナクレトス2世派が有利で、イノケンティウス2世はローマを追われて放浪していたが、神学者として高名だったクレルヴォーのベルナール*17の強力な働きかけにより情勢は逆転し、アナクレトス2世を支持する者は、ロジェ2世とアキテーヌ公ギョーム10世のみとなった。

*17 第2回十字軍を勧誘したり、彼の推薦で教皇が選出されるなど強い影響力を有していた。

1132年にイノケンティウス2世の呼びかけで、カプア公ロベール2世、アリーフェ伯ラヌルフ*18などをリーダーに反乱が起き、ノチェーラの戦いでロジェ2世を破ったが、ローマで戴冠した神聖ローマ皇帝ロタール3世が反乱を支援せずに引き上げたため、反乱は勢いを失い降伏した。ロジェ2世は、彼等に替えて自分の息子達を領主に据えて支配の強化に成功している。

*18 カプア公の封臣。ドレンゴット一族

しかし、1136年に満を持して、ロタール3世がバイエルン公ハインリッヒ放漫公と共に南イタリアに侵攻すると、反乱諸侯が再び蜂起し、これと合流して半島における首都であるサレルノを奪った。さらにビザンティン皇帝ヨハネス2世の支援も受けてバーリを奪い、反乱諸侯のアリーフェ伯ラヌルフをプーリャ公に任命して引き上げ、まもなく病死した。

その間、ロジェ2世はシチリアに引き篭っていたが、ロタール3世の撤退に応じて反撃に転じ、次々と失地を回復したが、反乱軍の決死の反撃によりリグニャーノの戦いでは敗北した。しかしラヌルフは1139年に病死し、ロジェ2世側で戦ったナポリ公セルジウスの戦死により、ナポリも併合することが出来た。

1138年にアナクレトス2世が亡くなり、ロジェ2世はイノケンティウス2世との和解を試みたが、教皇はカプアを教皇領との緩衝地帯として残すことを要求して、1139年に教皇軍を率いて侵攻してきた。しかし息子プーリャ公ロジェの襲撃で教皇を捕虜とし、ミニャーノの和で改めてシチリア王位を認めさせた。

シチリア王国は安定期に入り、1146–1153年にアンティオキアのゲオルギオスがアフリカに遠征しチュニジアを領土に加えている*19。また1147年からの第2回十字軍に乗じてギリシアに侵攻しコルフ島などを奪うが、1149年には撤退している。

*19 グリエルモ1世の代の1160年に失っている。

ノルマン人のシチリア王国は、アラブ人、ギリシア人、ランゴバルト(イタリア)人、シチリア人、ユダヤ人、ノルマン人の共存する多民族国家で、宮廷内ではフランス語(ノルマン・フレンチ)が使用されていたが、公文書はラテン語、ギリシア語、アラブ語、ヘブライ語で作成された。宗教的にもカトリックの他、イスラム教徒、ギリシア正教徒、ユダヤ教徒はそれぞれの信仰が許された。

科学技術、建築、美術もイスラム・アラブ、ビザンティン・ギリシアなどの影響を受けた優れた物が作られ、地中海貿易の中心地としても栄えた。

1154年にロジェ2世は亡くなり、以降、グリエルモ1世、1164年にグリエルモ2世と続き、反乱が多く、ビザンティン帝国の逆襲を受けたりもしたが、概ね地中海の強国として栄えた。しかし、1194年に女系継承で神聖ローマ皇帝ハインリッヒ6世がシチリアに侵攻し、ホーエンシュタウフェン朝となった。次のフリードリヒ2世の基本路線はノルマン朝時代と同様だったが、やはりローマ教皇の影響力が強くなり、イスラム教徒は半島のルチェーラに強制移住させられている。

ホーエンシュタウフェン朝の滅亡後、シャルル・ダンジューのアンジュー朝では、多民族文化は抑圧されイスラム教徒が追放されカトリック、フランスの影響が強くなり、またシチリアの晩鐘以降、ナポリとシチリアに分裂し、繁栄は失われていった。

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