ジャン・ド・ブリエンヌ - 中年の星

一介の騎士からエルサレム王、そしてラテン帝国皇帝へと華麗な経歴を誇るこの名前を知っている人は、かなりの歴史通か十字軍に詳しい人だろう。しかし時折、中年または老年の希望の星としてコラムなどで一般人向けに紹介されることがある。

というのも従来の定説では、彼は1148〜50年頃の生まれで、歴史に名を残すのは1210年にエルサレム王になってからで既に60歳を超えており、1230年にラテン皇帝になった時は80歳、1237年に亡くなる前年まで戦場に出ているが実に90歳近いことになる。

そのため、昔から大器晩成型の伝説的な人物とされているが、日本にも似たような人物がいる。北条早雲(伊勢長氏)はかっては一介の浪人から伊豆、相模を領有する大名になったとされていたが、1476年に駿河に下向した時点で44歳、長男の氏綱が生まれたのが56歳、伊豆を奪ったのが62歳、三浦氏を滅ぼしたのが85歳で、その3年後に88歳で亡くなっている。

しかし、こう書いてみるとやはり不自然で、何よりも長子の生まれる時期が遅すぎる。特に、素浪人ではなく伊勢氏の一門であれば、子作りも重要な仕事である。近年では、誕生を24年ほど遡る説が有力で、これなら長子誕生が34歳、死亡が64歳でまあ妥当である。

もっとも毛利元就も、厳島の戦いで名を上げたのが54歳、尼子氏を滅ぼしたのが69歳で、75歳で亡くなっているが、19歳で安芸武田氏に快勝して歴史に名を残しており、長男は27歳で誕生しているため不自然さはない。

前置きが長くなったが、ジャン・ド・ブリエンヌが歴史に現れるのは、1208年にエルサレム王国(アッコン王国)*1から若年の女王マリーの夫・後見者として適当な人物を紹介して欲しいとフランス王フィリップ2世(尊厳王)に依頼があり、それに対してトーナメント(馬上槍試合)の勇士として評判を得ていたジャン・ド・ブリエンヌが選ばれ、1210年にマリーと結婚しエルサレム王となってからで、それ以前の経歴はほとんど不明である。

*1 十字軍で述べたようにエルサレムは1187年に陥落しており、アッコンを首都としていた。

といっても、卑しい生まれではなく、シャンパーニュの中級貴族ブリエンヌ伯の息子(たぶん4男)であり、当初、僧職につく予定だったが、本人の希望により騎士になったようだ。中級貴族レベルでは次男以下に十分な領地を分け与えることはできないため、以降、トーナメントに参加して賞金を稼いでいたと思われる。

1204年の第4回十字軍や1209年のアルビジョワ十字軍に参加したとの説もあるが、フランスの多くの騎士が参加しているため、領地を持たないジャンのような騎士なら参加しただろうとの推測によるもので定かではなく、少なくとも記録に残るほどの功績を上げていないようである。むしろゴーチェ・ド・ブリエンヌ*2が1200年に故シチリア王のタンクレディの娘と結婚し、1205年までタラント公領やホーエンシュタウフェン家が所有するシチリア王位*3を争った際に加勢していたと思われる。

*2 1248年説では甥であるが、多分、長兄。
*3 神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世がシチリア王女コンスタンツェと結婚してシチリア王位を得ていたが1197年に亡くなり、翌年コンスタンツェも亡くなっており、弱冠4歳のフリードリヒ2世が王位に就いていた。

しかし、これらの企ては成功せず、領地を持てない貧乏騎士にとってはエルサレム王位は非常に魅力であり、フィリップ2世と教皇イノケンティウス3世からそれぞれ4万リーブルの援助を受け聖地に向かった。マリーは1212年に娘ヨランドを生んで産褥で亡くなったが、ジャンはそのまま王位に留まった。翌年、アルメニア王女ステファニーと結婚して男児を得ており、順当ならアルメニア王の後継者であったが夭折しており、ステファニーも1220年頃亡くなっている。

1218–1221年の第5回十字軍では中心人物の1人となったが、教皇特使との不仲もあり完全な協力体制をとることができず、結局、ダミエッタを陥しながらもカイロへの進軍に失敗して全員、捕虜となった。

その後、ジャンは救援を求めて西欧を旅したが、フランスはアルビジョワ十字軍中であり、イングランドのヘンリー3世は未だ若年であり、はかばかしい援助は得られなかった。この頃、レオン王国の王女ベレンガリアと結婚しており、後に3人の娘を得ている。

十字軍参加を誓いながら結局、第5回十字軍に参加しなかった皇帝フリードリヒ2世はジャンとマリーの娘ヨランド*4と婚約してエルサレム王となる条件で支援を約束したが、1225年に結婚した後は、ジャンがエルサレム王を退位することを要求した。フリードリヒ2世が聖地支配の実権を握るためには当然のことではあるが、かなり無礼な要求であり、前述したようにフリードリヒ2世は幼年の頃、ブリエンヌ一族の攻撃を受けていたため恨みを抱いていたのかもしれない。

*4 ヨランドの子が皇帝コンラート4世で、ジャンの血統がホーエンシュタウフェン家に入っている訳だが、その子コンラディンの代で同家は滅亡してしまった。

やむなく、この要求を呑んだものの、フリードリヒ2世が破門されたまま第6回十字軍(1228–1229)に出かけると、グレゴリウス9世の教皇軍と共に南イタリアを攻撃しているが成果は上がらなかった。

その後、1229年にラテン帝国から幼少の皇帝ボードゥアン2世をジャンとベレンガリアの娘マリーと結婚させ、ジャンが共治皇帝となる提案を受けてコンスタンティノープルに向かった。

1235年にニカイア帝国のヨハネス3世とブルガリア帝国の連合軍の攻撃を受け、伝説ではわずか160騎で1万人の敵を殲滅し、ベネチアの協力もあって防衛に成功しており、1237年に大往生を遂げている。

このように晩年の大活躍により中年、老年の希望としてしばしば喧伝されていたが、常識で考えれば、17歳のエルサレム女王の後ろ盾として王を選ぶ場合、60歳の男性を選ぶだろうか?

エルサレム王として王国を統治し、十字軍としてイスラム勢力と戦うには若造は向かないだろうが、体力、気力の充実した30、40代の壮年を選ぶだろう。もう1つの重要な役割として跡継ぎを作ることがあるため尚更である。

60歳まで子供を持たなかった人間が、その後3人の妻と結婚し、70歳を超えて結婚した3人目の妻とは3人の子供を作り、合計5人の子供を得ていることになるが、常識ではあり得ないだろう。

彼は若き王女を助けて国王になるという、まさに騎士道物語の典型的な遍歴の騎士(knight errant)であり、十字軍で活躍するキリスト教の勇士で聖地守護者であることと相まって、騎士の夢であり憧れであった。

伝説・神話の世界では、英雄は年齢を超えて活躍するため、この伝説は維持され、1911年版のブリタニカ百科事典*5でも老人説をとっており、現在でもジャン・ド・ブリエンヌの記事の半ば近くはそれに従っている。

近年の研究では、1149年に生まれたのは聖職者となった同名の叔父であり、当人は1170年または1175年生まれが有力となっている。つまり20〜25年若返る訳で、35~40歳でエルサレム王になり、55~60歳でラテン皇帝、62~67歳で死亡と常識的な年齢に収まる。しかし、話としては老年の方が面白いため、今後もなかなか改まることはないのだろう。

*5 現在のブリタニカでは、1170年頃に改められている。

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