ヴェルフとホーエンシュタウフェン

ヴェルフとホーエンシュタウフェン(1)

1125年に神聖ローマ皇帝ハインリッヒ5世が嫡子なく死去した。というのは「もしもハインリッヒ5世に嫡男がいたら」で既に述べているが、これによりザリエリ朝は断絶し、ドイツでは新しい王が選出されることになり、二大勢力の対立時代となる。

ヴェルフとホーエンシュタウフェンはそれぞれの家名であるが、ヴェルフ家がローマ教皇と組んでホーエンシュタウフェン家の皇帝と戦う構図が多かったため、イタリアではゲルフとギベリン*1として教皇派と皇帝派の意味で使用されるようになった。

*1 ヴェルフとホーエンシュタウフェン家の居城ヴィベリンをイタリア風に発音したもの

以前から地域的な対立があり、ドイツの王朝は元々ザクセンを基盤としたオットー朝(ザクセン朝)だったが断絶後、フランケンを基盤としたザリエリ朝(フランケン朝)に代わり、ザクセンは伝統的に反皇帝派の温床となっており、この時点でのザクセン公ロタール・ズップリンブルクもハインリッヒ5世に任命されたにも係わらず、その後、反皇帝派の旗頭となっていた。

一方、ホーエンシュタウフェン家のフリードリヒはハインリッヒ4世からシュヴァーベン公に任命されると共にその娘アグネスを妻にしており、その子であるフリードリヒ隻眼公とコンラート(3世)はザリエリ家の領土を継承し、コンラートはフランケン公になっていた。

従って、本来はフリードリヒ隻眼公が最有力候補だったが、ドイツ諸侯達は世襲にならないこと、できるだけ前の王朝と関係が少なく、あまり強力な皇帝にならないことを基準に選出したため、既に50歳を越えた初老で嫡男のいないロタール(3世)をドイツ王に選出してしまった。

ホーエンシュタウフェン家の兄弟はこれに不満で、コンラートは1127年に対立王に選ばれ*1、さらにイタリアに入ってイタリア王として戴冠したが、イタリアで勢力を築くことができず、一方、シュヴァーベンの隻眼公もロタール3世の攻撃により主要な都市を複数失っており、1135年にロタール3世を皇帝として認めて和解している。

*1 この時点で、隻眼公は仇名通り片目を負傷で失っており、王にふさわしくないと考えられた。王、皇帝は肉体的に完璧であるべきとの考えがあり、ビザンティンでしばしば退位させられた皇帝が鼻を削がれたり、目を潰されたりするのは障害者にして復位させないためなのである。それでも付け鼻をして復帰した皇帝はいたが・・・

1127年にロタール3世は1人娘のゲルトルートをヴェルフ家のバイエルン公ハインリッヒ(傲慢公)と結婚させており、有力な同盟者を得ると共に男子のいないロタール3世の後継者になると見なされた。

一方、ローマでは皇帝の影響力が減少したため、教皇位は再びフランジパーニ家やピエルレオーニ家などのローマ貴族に左右されるようになり、1130年に教皇ホノリウス2世が死去すると、インノケンティウス2世とアナクレトゥス2世が別々に選出されて、久々に本格的な2人教皇の対立状態となり、両者とも皇帝ロタール3世の支持を求めてきた。

当初はアナクレトゥス2世の方が正統性が高く有利だったのだが、名説教師として人望の厚かったクレルヴォーのベルナール(聖ベルナール)が強力に支持したため情勢はインノケンティウス2世に傾き、アナクレトゥス2世は南イタリアとシチリアの支配者であるシチリア伯ルッジェーロ2世にシチリア王位を与える代わりに支援を得ていた。

インノケンティウス2世を支持することにしたロタール3世は1133年にローマで戴冠し、イタリア南部を攻略するが、1137年に帰路のアルプスで急死した。

ヴェルフとホーエンシュタウフェン(2) - バルバロッサ

今回はロタール3世の後継者であるハインリッヒ傲慢公が有利のはずだが、再びドイツ諸侯はより弱い勢力を選び、ホーエンシュタウフェン家のコンラート3世が選出された。コンラート3世はハインリッヒ傲慢公を捕らえ、彼の所有するザクセンをアスカーニエン家のアルブレヒト熊公に、バイエルンを異父弟*2のオーストリア辺境伯レオポルト4世に与えた。しかしザクセンではヴェルフ家の抵抗が続き、1142年にハインリッヒ獅子公*3にザクセンを返還している。これがヴェルフとホーエンシュタウフェン(ゲルフ対ギベリン)の最初の争いである。ちなみにアルブレヒト熊公はこの後、ブランデンブルク辺境伯領の初代辺境伯となっている。

*2 母アグネスはオーストリア辺境伯と再婚していた。
*3 ハインリッヒ傲慢公の息子

1147年に長男のハインリッヒを共治王にすることに成功し、甥のシュヴァーベン公フリードリヒ(バルバロッサ)*4を連れて第2回十字軍に向かったが、十字軍は成果なく1150年に帰国した。同年に長男ハインリッヒと共にヴェルフ家のヴェルフ4世、5世*5と戦い勝利を収めるが、ハインリッヒはまもなく死去してしまう。彼自身も1152年に病に倒れ、死ぬ前に6歳の次男のフリードリヒではなく、兄の子であるバルバロッサを後継者に指名したと言われるが、それに立ち会ったのはバルバロッサ当人とバンベルク司教の2人のみであり真偽は定かではない*6。

*4 ヴェルフ家のハインリッヒ傲慢公の妹ユーディトとフリードリヒ隻眼公との子
*5 ハインリッヒ傲慢公の弟とその子
*6 とは言え、ヴェルフ家との争いの続く状況において6歳の子供では難しく、政争の中で殺されるよりはとバルバロッサに後を託した可能性はある。代わりにフリードリヒはシュヴァーベン公になっている。

フリードリヒ1世バルバロッサは母がヴェルフ家のユーディトでありハインリッヒ獅子公は従兄弟にあたり、両家が和睦するのに適切な人物だった。1156年に獅子公にバイエルンを返還して和解し、オーストリア辺境伯ハインリッヒ2世(レオポルト4世の弟)にはオーストリアを公領に格上げし、世襲領*7とすることで了承させている。

*7 この時代までは公領は皇帝が任命権を持っており、皇帝が取り上げることも可能だった。

この後、バルバロッサはイタリア遠征に乗り出す。彼がイタリア支配にこだわったのは、ヴェルフとホーエンシュタウフェンの争いの中で、既にドイツでは諸侯の力が領邦国家といってよい程、独立的なものとなっているため、そのような勢力がなく裕福な都市の多い北イタリアを支配することにより、ドイツ全土への影響力を回復しようと考えたためである。このように帝国全土より直轄地を重視する方針は、この後にフリードリヒ2世、ルクセンブルク家、ハプスブルク家に受け継がれている。

しかし北イタリアへの出兵はローマ教皇の警戒心を呼び、再び教皇との対立が再燃し、アレクサンドル3世に対して対立教皇ヴィクトル4世を立てて対抗するも、泥沼のようなゲルフ対ギベリンの争いに引きずり込まれ、1176年にロンバルディア都市同盟に敗北することで失敗に終わる。

しかし、イタリア遠征に協力的でなかったハインリッヒ獅子公を1181年に追放し、ザクセンとバイエルンを剥奪している*8。1186年にはシチリア王国の女性相続人コンスタンツェと息子のハインリッヒ(6世)を結婚させ、シチリア王国支配への布石を打っており、またボヘミア、ハンガリー、ポーランドへの影響力を強め、ビザンティン皇帝マヌエル1世、イングランド王ヘンリー2世、フランス王ルイ7世とも親交を深めて友好を保っている。

*8 バイエルンはヴィッテルスバッハ家へ、ザクセンはアスカーニエン家に渡されている。獅子公は一旦、舅のイングランド王ヘンリー2世の元に亡命した後、大幅に縮小したブラウンシュヴァイク公となっている。

彼はヴェルフとホーエンシュタウフェン、教皇と皇帝の争いの中で最大限の努力をしており、弱体化していた皇帝権を回復して、ドイツでは名君とも見なされているのだが、今一つ目立った成果がなく、第3回十字軍で溺れ死んだ人*9のイメージしか残っていないのは気の毒なことである。ドイツでは彼の遠方での急死を信じられず、バルバロッサは死んでおらず、どこかに眠っており、ドイツの危機に目覚めるとの伝説が残されている。

*9 原因には諸説あり、甲冑を着ていたため泳げなかった、あるいは水浴びしている際に心臓麻痺を起こしたとも言われる。

ヴェルフとホーエンシュタウフェン(3) - オットー4世

既に1169年にドイツ王に選出されていたハインリッヒ6世は、1189年のバルバロッサの死後にすんなりと後継することができた。しかし同年にシチリア王グリエルモ2世も亡くなっているが、シチリア貴族はドイツ王を嫌い、皇帝に教皇領を南北から挟まれることを嫌ったローマ教皇の支持を受けて、コンスタンツェの兄の庶子であるレッチェ伯タンクレディを選出していた。

ザクセン回復を目指すハインリッヒ獅子公への対応に追われて、ハインリッヒ6世は動けず、1191年にようやくシチリア遠征に向かったが、ナポリの包囲に失敗して帰国した。しかし十字軍帰りのリチャード獅子心王がオーストリアで捕らえられ、その身代金が入ったため、1194年に再び遠征を行った。同年にタンクレディの長男ルッジェーロ3世とタンクレディが相次いで死去しており、王位は9歳のグリエルモ3世が継いでいたが、シチリア王国では抵抗は無駄だとしてハインリッヒ6世の前に降伏する者が相次ぎ、ほとんど無血で首都パレルモを占領しシチリア王位を得ることができ、神聖ローマ帝国とシチリア王国を支配する同時代の最強の君主となった。

その勢いで、1196年にわずか2歳の息子フリードリヒ(2世)をドイツ王に選出させることに成功したが、選挙王制を廃した皇帝位の世襲化への同意を諸侯から取り付けることはできず、翌1197年にシチリアで反乱が発生し、その鎮圧中に病死した*10。彼はシチリアに対する厳しい支配と反乱に対する残忍な対応で知られているが、同時にミンネザンガー(宮廷詩人)でもあり、マネッセ写本の筆頭には彼の恋の歌が掲載されている。

*10 一説では毒殺とも言われる。

彼の早い死(32歳)は帝国を混乱に陥れた。既にドイツ王に選出されているとは言え、常に難しい立場にある皇帝に3歳の子供では対応できないとの認識は両陣営にあり、ホーエンシュタウフェン派はハインリッヒ6世の弟のシュヴァーベン公フィリップを推し、ヴェルフ派は獅子公の次男オットー(4世)を担ぎ*11、混乱の中でフリードリヒ2世の安全を心配した母コンスタンツェは神聖ローマ帝国の相続権を放棄してフリードリヒ2世を連れてシチリアに戻り、ローマ教皇イノケンティウス3世の保護を求めた。

*11 獅子公の長男のライン宮中伯ハインリッヒは十字軍で留守だったため。

1198年に教皇となったイノケンティウス3世は、教皇権最盛期を作り出した政治家であり、これを神聖ローマ帝国とシチリア王国を切り離し、それぞれを教皇権の影響下に置く絶好の機会と捕らえた。フリードリヒ2世の後見者となることでシチリア王国に影響を及ぼすとともに、ドイツ王争いに介入し、1201年にイタリアにおける大幅な譲歩と引き替えにオットー4世を支持した。オットー4世は叔父にあたるイングランド王ジョンの支援を受けており、ボヘミア王オトカルク1世やデンマーク王ヴァルデマー2世からの支持もあり有利だったが、度重なるフィリップとの戦いに敗れ、支持者の大半がフィリップに寝返ってしまった。さらにイングランド王ジョンはフランス王フィリップ2世に大陸領土の大部分を奪われ、オットー4世を支援する余裕がなくなっていた。

この状況において、イノケンティウス3世もフィリップの王位を認め、その王位は確定したかと思われたが、1208年に暗殺されてしまった*12。フィリップの業績は特にないが、彼の妻はビザンティン皇女であり、その兄弟のアレクシオス(4世)・アンゲロスが亡命しており、第4回十字軍の指導者の1人であるモンフェラート侯が訪問した際に、コンスタンティノープル攻撃が計画されたと見られている。

*12 バイエルン宮中伯オットー(ヴィッテルスバッハ家)による。フィリップの娘との結婚を拒否されたことが理由と言われる。

オットー4世はフィリップの娘ベアトリックスと婚約して両派の和解を計り、唯一のドイツ王となった。1209年の皇帝への戴冠においてイノケンティウス3世はイタリアにおける領有権やドイツの司教叙任に関して多大な要求をし、オットー4世はそれを了承したが、ローマを離れるとまもなくそれを翻し、譲歩したイタリアの領土を回復すると共にローマに進撃してウォルムスの和約の撤回まで求めた。

激怒した教皇はオットー4世を破門したが、彼は構わず、さらにシチリア征服を企てていた。しかし、ドイツ諸侯は、北方で勢力を拡大するデンマークに対応せずにイタリアに注力する皇帝に不信を持っており、1211年に教皇とフランス王フィリップ2世の支持を受けてシチリアのフリードリヒ2世を再びドイツ王に選出した。

これを受けてフリードリヒ2世はドイツに入り、おりしもベアトリックスが1212年に結婚して間もなく亡くなっていたため、ホーエンシュタウフェン派を含めた大半がフリードリヒ2世を支持することになった。追い込まれたオットー4世はイングランド王ジョンと結んで、フリードリヒ2世を支持するフランス王フィリップ2世を攻撃することで活路を見出そうとしたが、1214年のブービーヌの戦いで敗北し、ドイツに逃げ帰るものの1215年に廃位され、失意の内に1218年に亡くなった。彼は最初で最後のヴェルフ家の皇帝となった。

ヴェルフ家領は兄のライン宮中伯ハインリッヒ、弟ウイルヘルムの子オットー(幼年公)と渡り、その後も旧領のザクセン、バイエルンへの主張を続けたが、1235年に皇帝フリードリヒ2世と和解し、新たにブラウンシュヴァイク=リューネブルク公に叙任された。以降は一領邦君主として、ドイツ中央の政治には登場しなくなるが、オットー幼年公の娘婿ホラント伯ウイルヘルムが1247年に対立ドイツ王になっている。また子孫の一系統は1692年にハノーファー選帝侯になっており、ここからイギリスのハノーバー朝が生まれている。

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