ベネチアの憂鬱

ベネチアの憂鬱(1) - 海上帝国

ベネチアといえば水の都で、ゴンドラが行き交う優雅な洗練された観光都市であり、かっては東方との交易で大いに栄えた商人の街だったと一般に知られている。

歴史を少しかじってからは、日本の戦国時代の堺や博多のような貿易、工芸品で栄えた商人の自治都市の印象だったのだが、「海の都の物語」*1(塩野七生)を読んでからそのイメージが大きく変わった。実際はそんな生易しいものでなく、地中海の海岸や島々に要塞化した貿易拠点を有して、東地中海の制海権を握る地中海海上帝国*2と呼べる程のものだったようで、12世紀から16世紀にかけては、欧州の主要国、列強として挙げても良いほどなのだ。

*1 日本におけるベネチア史の決定版と言って良いが、作者が少々、ベネチア贔屓かつ西欧中心的であることを差し引いて読む必要がある。
*2 後のポルトガル、オランダなどの海上帝国に近いイメージである。

現代の歴史は現存する国家の国史が中心であるため、国家としては消滅し、イタリア建国の直接的母体となった訳でもないベネチアの重要度は少し軽視されがちのように思われる。有名な「レパントの海戦」もベネチアが発起したもので、その戦力の半数を提供しているにも関わらず、スペインや教皇が主体と書かれることが多く、ベネチアの名が抜けていることすらある*3。

*3 ジェノヴァは司令官ドーリアとガレー船27隻を出しているものの、スペイン海軍に雇われていたため名前が出てこないことが多いが、それと同列に見られているらしい。

そのくせ、第4回十字軍の悪役としては結構知られているが、以前説明したように、この行動は特に十字軍運動から懸け離れたものではなく、第6回十字軍フリードリヒ2世と同様に少々、現実的過ぎるだけなのである。

理想主義者は現実主義者を毛嫌いし、現実主義者はしばしば理想主義者の行動を予測できず失敗することは「海の都の物語」でもしばしば強調されている。ベネチアが海上商業帝国を築くまでの道程は決して平坦ではなく、その時々の困難に打ち勝って東地中海の制海権を維持して来たのだが、15-16世紀のベネチアの苦難は未曾有のものだった。

元々、ベネチアは困難の中から産まれた国で、フン族から逃れてきた人々が干潟に移り住んだのが最初だとも言われる。その後、ランゴバルト族に追われた人々がやってきて、コムーネ(共同体、自治体)を形成するようになり、9世紀にフランク王国が侵攻してきた時には海に囲まれた地勢を利用してこれを撃退し、フランク王国/神聖ローマ帝国には含まれず、東ローマ帝国/ビザンティン帝国に名目的に留まることにより、東西間に独自の位置を占めることになった。

当初は漁業と近海交易で成り立っていたが、やがて10世紀までにはビザンティン帝国の保護下でビザンティン全域からイスラム教国にまで交易を行うまでに発展した。11世紀には衰えたビザンティンの海軍を肩代わりすることでビザンティン領内の自由貿易特権を得て、その勢いはビザンティン商人や他のイタリア海運都市(ピサ、ジェノヴァ、アマルフォ)を上回るものになった*4。

*4 ビザンティン商人は不満であり、皇帝は何度か特権を廃止しようとしたが、ベネチアは実力でそれを阻止したため、ビザンティン側の感情は悪化していった。またピサやジェノヴァが同様の特権を得ることを妨害していた。

そのため、1096年から始まった十字軍に対しては当初は静観していたが、十字軍がエルサレムとその周辺を獲得して十字軍国家を建設し、協力したイタリア海運都市に自治居住区を与えるのを見ると、遅れ馳せながら参加し、1110年にエジプト海軍を壊滅させるなど活躍して、十字軍国家でも拠点を確保して存在感を示した。

1187年にエルサレムはサラディンにより陥落するが、第3回十字軍で確保したアッコンなどに拠点を持ち、アイユーブ朝との交易も再開し大きな痛手は受けなかった。

コンスタンティノープルではマヌエル1世死後の1182年に反ラテン暴動が起こり、ベネチア人を中心に80,000人もの西欧人が虐殺され、ビザンティンでのベネチアの商業活動は一時期、中断し、その後再開したものの西欧側の不安や不信感は消えず、これが第4回十字軍に繋がった。

第4回十字軍は当初はビザンティンを征服するつもりではなく、親西欧の皇帝を擁立することが目的だったと思われるが、ビザンティンの内情も知っているベネチアは十字軍に約束された金額を新皇帝アレクシオス4世が支払えないことを予想していたかもしれず、その代わりにビザンティンの島嶼と沿岸部の割譲を要求するつもりだった可能性はある*5。しかし、さすがにアレクシオス4世が殺害され、新皇帝アレクシオス5世ドゥーカスが全ての約束を反故にすることは予想外だったのではないだろうか。

*5 第4回十字軍が輸送料を支払えないことは、おそらく想定していただろう。

再度のコンスタンティノープル制圧後にラテン帝国が成立し、ベネチアはラテン帝国内での特権を得ると共にギリシアの海岸部とナクソス(群島)公領、クレタ島、ネグロポンテなどの島々の領土を得た。これらは所謂、「海のハイウェイ」構築の基盤となり、東地中海の覇権は強化された。これまではビザンティンに間借りする形だったが、これで名実共に海上帝国になったと言える。

ベネチアの憂鬱(2) - 地中海死闘編

しかしベネチアの覇権も安泰ではなかった。ラテン帝国は最初から第2ブルガリア帝国、ギリシア人の反乱、旧ビザンティンの亡命政権(ニカイア、エピロス、トレビゾンド)により弱体*6で、1261年には亡命政権の1つであるニカイア帝国がコンスタンティノープルを奪い*7、ジェノヴァの援助により復活したビザンティン帝国はベネチアをビザンティン交易から締め出した*8。しかし、ベネチアの海軍力を無視できず、まもなく以前ほどの特権ではないが交易を認めた。

*6 1237年のジャン・ド・ブリエンヌの死後はコンスタンティノープルを確保するのみで、ほとんどの期間、皇帝ボードゥアン2世は援助を請うために西欧を旅していた。
*7 城内の守備隊とベネチア艦隊が出払っていることに気づいたビザンティンの偵察部隊800人が地元のギリシア人の協力で城内に入り占領したという笑い話のような結末だった。
*8 コンスタンティノープルで商売を営んでいたニコロとマフィオの兄弟は、危険が迫ったことに応じて黒海方面から中央アジアに移り、そこでモンゴル(イル汗国)の使者と知り合って大都に同行しフビライに拝謁することになる。ニコロの息子がマルコ・ポーロである。

この頃からジェノヴァとの争いが激しくなり、1256年にエルサレム王国のアッコンで衝突したのを皮切りに、復活したビザンティン帝国と残存ラテン国家との争い、そしてビザンティン領内での主導権争い、ビザンティンの帝位争いなどと連動して、1381年のキオッジアの戦いまで断続的に争いが続いた。

1291年にはレヴァントの最後の十字軍国家の拠点アッコンが失われるが、アルメニアやビザンティンを通した交易は維持されており、エジプトのマムルーク朝とも程なく交易が再開したため大きな影響はなかった。むしろ問題は、しばしばイスラム教徒との交易を禁止するローマ教皇であったが、これも小アルメニアなどの正教徒やユダヤ教徒などを間に介することにより回避することができた。

結局、制海権を押さえている限り、陸上国家が海外と交易するにはベネチアと取引するしかなく、ライバルと言えるのは同様の海軍力を持つ海運国家と沿岸拠点の背後を領有する巨大な陸軍を有する大国だけである。

前者では、アマルフィ/シチリア王国は13世紀内に力を失い、ピサは1284年のメロリアの海戦でジェノヴァに敗れて第一線の海運国としては脱落しており、ベネチアに匹敵するのはジェノヴァだけであり、後者では、既にパレオロゴス朝ビザンティン帝国と大空位時代以降の神聖ローマ帝国(北イタリア)は脅威でなく、ダルマチアを争うハンガリーだけだった。

それが具体的に現れたのが1378-1381年のキオッジアの戦いで、海上はジェノヴァに封鎖され、陸上はハンガリーとパドヴァに攻め込まれて亡国の危機に立たされたが、何とか勝利を収め、ジェノヴァとの争いに終止符を打った。ハンガリーではラヨッシュ大王が1382年に死去し、ルクセンブルク家のジギスムントとナポリ・アンジュー(ドラッツィオ)家のカルロ3世/ラジスロー親子がハンガリー王位を争ってそれどころではなく*9、パドヴァは1405年にベネチア領になっている。

*9 ラジスローは結局、所有していたダルマチアの権利をベネチアに売却してナポリに引き上げている。

ベネチアは、これまで多くの海外領土を持ちながらも、イタリアの領土には興味を示していなかったのだが、キオッジアの戦いで、海陸から封鎖を受けたことにより、緩衝地帯と成り得る領土が必要だと感じたこととヴィスコンティ家の拡張政策によりドイツへの陸上交易路をミラノに占められることを恐れて、14世紀末から本土(テラ・フェルマ)と呼ばれるイタリア領土を広げ始めた。

ベネチアの陸軍は他のイタリア都市国家と同様に傭兵(コンドッティエーレ)が主体であるが、豊かな資金力と強力な海軍により、より傭兵の統制は取れており、住民も概ね僭主に支配される戦争の絶えない小都市国家より、比較的、安定した裕福なベネチアの支配下に入る方を好んだため、ミラノと対抗しつつ順調に領土を拡張した。
800px-Repubblica_di_Venezia.png
こうして15世紀の半ばには北東イタリア(ヴェネト、ロンバルディア、フリウリ)、イストリア、ダルマチア、ギリシア沿岸部、島嶼(クレタ島、ネグロポンテ、エーゲ海群島)に跨る面積的には大きくないが、人口は200万人とポルトガル(170万人)より多い、強大な海上帝国を築いており(図参照)、その商圏は東地中海は元より、黒海、西地中海、そしてイングランドにまで及んでいた。

しかし、これまでは神聖ローマ帝国に属さないことで、ゲルフ対ギベリンなどのイタリア内の争いを避けてこられたが、イタリア本土に領土を持つことで、ローマ教皇、神聖ローマ皇帝、他のイタリア都市国家、そしてイタリア戦争が始まるとフランスやスペインと言った領土国家の争いに巻き込まれることになった。

ベネチアの憂鬱(3) - オスマン帝国

一方、東方から現れた脅威がオスマン帝国である。

1354年にオスマン帝国がガリポリを超えてヨーロッパに進出してから注目はしていたが、ビザンティン領の大部分を征服して、セルビア、ブルガリアに侵攻しても、所詮は陸軍国で、ベネチアの影響下にあるギリシア南部は素通りしており*10、ベネチアはキリスト教国として1396年のニコポリス十字軍や1444年のヴァルナ十字軍に協力しても本気で敵対する気は無く、通商関係を維持することを望んでいた。

*10 沿岸部のベネチア領の都市を攻撃するには海からの封鎖が必要であり、それにはベネチアと互角の海軍力が必要であった。

そうも言ってられなくなったのが、1453年のコンスタンティノープル包囲戦だった。コンスタンティノープルが1000年続いたローマ帝国の首都とかキリスト教徒の最後の砦と言った感覚はロマンティストやローマ教皇が心配することで、ベネチアにとって重大だったのは*11、黒海を繋ぐ重要な貿易拠点で、事実上の国際自由貿易都市だったことで、オスマン帝国が領有すればその通商条件は確実に厳しくなるからである*12。

*11 そして黒海貿易に重点を置くジェノヴァにとっては一層重要だった。
*12 既にルメリ・ヒサールを築いた時点でボスポラス海峡の通行税を徴収している。

ベネチア、ジェノヴァとしては座して見ている訳にはいかないが、全面的に防衛を担当するほどの義理もビザンティンにはなく、重要な貿易相手でもあるオスマン帝国とそこまで敵対したくないとの思惑もあった。

結局、ベネチアはコンスタンティノープルに滞在していた個人と船舶が自主的に防衛に参加しただけで国家としては中立の立場を取り、ジェノヴァはガラタ居住区は中立としたが、ジェノヴァ領キオス島の傭兵隊長ジュスティニアーニが700人の兵を連れて防衛隊長になっている。

戦力差は圧倒的だが、コンスタンティノープルの三重の防壁はこれまで幾度も大軍の攻撃を防いでおり、オスマン帝国も四方は敵で、未だ基盤は固まっておらず、攻防戦が長引けば何が起こるか分からなかった*13。

*13 100年に亘り、コンスタンティノープルは何時落ちてもおかしくなかったが持ちこたえてきた。

包囲は4月2日から始まり、メフメト2世はオーバン砲と呼ばれる巨砲を使って城壁を崩し、4月22日に艦隊を陸越えさせて鎖で封鎖されていた金角湾に侵入させ、5月21日の降伏交渉が決裂した後、5月25日までトンネルを使って城壁を崩そうとしたが、ビザンティン側に気づかれ阻止されている。こうして5月26日から総攻撃が始まり、5月29日についに守備隊長ジュスティニアーニが負傷して後送されたのを契機に防衛側は崩れだし、皇帝コンスタンティヌス11世は侵入してくる敵軍に突撃して戦死し、千年続いた東ローマの都はオスマン帝国の首都となった*14。

*14 約2ヶ月良く持ちこたえと言うべきか、1000年の歴史を持つ難攻不落の都市がわずか2ヶ月でと見るべきか。

これはベネチアとしても衝撃で財産的損害も大きかったが*15、こうなってしまえば交易が優先であり、多少、不利な条件でも通商条約を結んで一段落した。その後、モレアスやトレビゾンドなど旧ビザンティン領が征服されてもベネチア領は手つかずで、この関係が継続することを期待していた。

*15 ビザンティンでより特権的地位を得て、黒海貿易に大きな利益を得ていたジェノヴァの方が被害は大きかった。この後、カッファなどの黒海沿岸の殖民都市やレスボス島などの島々を失い、東方貿易において壊滅的打撃を受けた。

しかし、かってのビザンティン帝国領すべての権利を持ったと考えているメフメト2世は順番を考慮していただけであり、1463年に些細な理由でレパント(ナフパクトス)を攻撃してきた。ベネチアは強く迷ったものの、ここらで手強いところを見せる必要があると判断して開戦に踏み切った。イタリアでは既にローディの平和が維持されており後顧の憂いはなかった。

ローマ教皇ピウス2世は大規模な十字軍を派遣してコンスタンティノープル回復を望んでいたが、それに応じるのは直接的な利害関係者であるハンガリーとアルバニアぐらいで実現性は薄く、ベネチアはペルシア白羊朝のウズン・ハサンや東アナトリアのカラマン侯国と同盟を結び*16、エジプトのマムルーク朝には中立を保たせて、オスマン包囲網を敷いた。ベネチアにとっては、オスマン帝国を滅ぼして、ローマ教皇の影響力の強いカトリックのビザンティン帝国を作るメリットはなく、また実現可能とも思っておらず、オスマン帝国に手強いところを見せて、ベネチア領への侵攻を止めさせ、有利な交易関係を結ばせるのが狙いだった。

*16 ベネチアにとってはキリスト教、イスラム教は関係なかった。オスマン帝国がベネチアの領土と交易の障害になりそうなため開戦を決意しただけである。

しかし戦況は思わしくなかった。傭兵頼みの陸軍はモレアスの海岸部の要衝を確保できず、ハンガリー王マチアスはボスニアに侵攻したが、オスマン軍との決戦は避けていた。1464年にピウス2世が死去して十字軍は立ち消えになり、1466年にオスマン軍はカラマン侯国を制圧している。アルバニアのスカンデルベグは数度に渡りオスマン軍を撃退し大健闘していたが1468年に病没し*17、1470年にネグロポンテが奪われてベネチアに大きな衝撃を与えた。1473年にはオスマン軍はウズン・ハサンの白羊朝軍を「オトゥルクベリの戦い」で破り、勝利を期待できなくなったベネチアは講和を探っていたが、メフメト2世の条件はベネチアにとって非常に厳しいものであったため妥結できず、1477年からはイタリアのベネチア領にオスマン帝国の軽騎兵が略奪を繰り返して住民を恐怖に落としいれ、1478年末にはアルバニアの最後の拠点スクータリ(シュコドラ)は陥落寸前となった。

*17 もっとも、スカンデルベグの本拠地クルヤは1478年までアルバニア人とベネチアが保持していた。

予想以上に交戦状態が長引き、東方貿易に大きな支障が出てきたベネチアは、ついに1479年に講和を結んだ。ネグロポンテを失い、賠償金や貢納金とも見なせる年金の支払いは屈辱的だったが、交易は再開し、ベネチアには小康が訪れた。しかし、ローマ教皇やハンガリーなどのキリスト教国からは裏切り者扱いを受けることになった*18。実際、1480年に南イタリアのオトラントがオスマン軍に占領されローマ教皇はパニックに陥るが、この海を越えた遠征はベネチアとの講和があったため可能となったものである。

*18 平和条約を結んで交易関係を復活すれば、当然、対オスマンでは中立を維持することになるが、十字軍的見解では利敵行為と見なされる。ベネチアはオスマン戦ではローマ教皇の支援を必要としており、常に十字軍的見地と交易とのジレンマに悩まされた。

屈辱的な講和とはいえ、一時的な敗北はベネチアにとって初めてではなく、東方交易と海軍力が健在である限り巻き返しは可能だった。しかし、歴史において、より大きく恒久的な影響が生じていた。

ベネチアの憂鬱(4) - 大航海時代

1463〜79年の16年ものオスマン戦争が続いた結果、東方の物産、特に香辛料の流通量が減少し価格が高騰していたのである。

15世紀初頭から始まったポルトガルのアフリカ航路探検は、当初はベネチアやイスラム教国を介さずに、サハラ以南の国を通して東方貿易を行うことを目論んだものだが、インドとの交易路は見つからず、代わりにアフリカの金と奴隷を入手して繁栄していた。

その後もインド洋への出口を求めてアフリカ内陸部への探検や南部への航海を続けていたが、インド洋に抜ける通路は見つからず、例え見つかったとしても、これほど遠ければ、現地と直接取引きをするとは言え、地中海経由に対して不利は否めなかった*19。

*19 地中海経路は陸路と多くの仲介者を経由するが、紅海ルートなら最小限ですみ、平和が維持されていれば、こちらの方が有利である。

しかし、オスマン帝国とベネチアの長期の戦争により香辛料価格が高騰したことで、それだけ遠距離でも儲けが期待できるようになり、1482年頃に赤道を越え、1488年に喜望峰に到着してインド洋に行けることがほぼ確実になり、1498年にはバスコ・ダ・ガマがインド(カルカッタ)に到達して香辛料を入手してしまった。

一方、これだけ香辛料が高ければ、ジェノヴァ人コロンブスが提案していた西回り航路も採算が取れる可能性があり、スペイン両王はずいぶん迷った末*20に航海にゴーサインを出し、1492年の新大陸発見に繋がっている。

*20 コロンブスはフィレンツェの学者トスカネリの誤った計算を信じて、地球の円周を実際の1/3位と考えており、多くの専門家が成功を危ぶんでいた。新大陸発見は怪我の功名といえる。

ベネチアにとってコロンブスの行った場所はどう見てもインドではないため、直接的な問題は無かったが*21、ポルトガルの成功は大きな脅威だった。香辛料の価格は下がったとは言え、東地中海の不安定さから高止まりしており、さらに1499年から再びオスマン帝国と交戦することになった。

*21 とは言え、新たな交易路がベネチアから遠い場所に開かれることは心配の種にはなる。

オスマン帝国の海軍は飛躍的な成長を遂げており、前回の戦いは総合的には敗北したとは言え、自慢の海軍は負けていなかったのだが、今回はゾンキオの海戦などで、わずかながらとはいえ負けているのである。ギリシア本土の領土の大部分を失い、ベネチア共和国の2つの眼と呼ばれたモドーネとコローネも失ってしまった。

一方、ポルトガルは単に航路を開発しただけでなく、1500年以降、カブラル、ガマ、フランシスコ・デ・アルメイダなどの艦隊を派遣してイスラム船を襲い、紅海を封鎖して東方貿易を妨害したが、十字軍的大義名分を名乗ってローマ教皇や西欧の支持を得ることができた。

ベネチアはマムルーク朝のスルタンを支援し、1503年にオスマン帝国と停戦すると対ポルトガルではオスマン帝国とも協力することになった。このような活動は当然、ローマ教皇の気に召すはずはなかったが、さらにイタリア本土でも問題が起きていた。

当時のローマ教皇ユリウス2世はイタリア戦争で教皇領を広げることに熱心だった。チェーザレ・ボルジア*22の没落後、リミニやファエンツァなどのいくつかのロマーニャの都市はベネチアの保護を求めており、ユリウス2世はそれらの返還を求めていたが拒否され、1508年についにフランス、神聖ローマ帝国、スペインに呼びかけて対ベネチアのカンブレー同盟を結成してベネチア領に攻め込み、ベネチアはイタリア領土の大部分を失った*23。

もっとも、フランスの強大化に不安を抱いたユリウス2世は、まもなくベネチア、スペインなどと神聖同盟を結び、様々な離合集散を繰り返した末に、1516年までにベネチアはほとんどの領土を奪回できたが、戦争による疲弊は免れなかった。

*22 教皇アレキサンデル6世の庶子で、教皇領の再征服を行いロマーニャ公となったが、父教皇の死後に没落した。
*23 マキャベリは君主論の中で、「八百年かけて苦心惨憺して征服したものを、わずか1日で失った」と述べているが、イタリア領土はせいぜい百数十年前からである。いずれにしろ、ベネチアの珍しい外交的失敗だった。

この間にオスマン帝国はさらなる拡大を続けており、1517年にはエジプトのマムルーク朝を滅ぼして、東地中海沿岸部をすべて支配化に入れてしまった。これはベネチアにとって大きな脅威だったが、皮肉なことに強力な海軍を有するオスマン帝国が紅海を支配することによりポルトガルの封鎖は破られ、東方貿易は活気を示すようになり、ベネチアの商業努力もあって、アフリカ周りのポルトガルやスペインの香辛料貿易と対抗できるようになった。

しかし1537年から再びオスマン帝国に攻撃されることになる。既に単独ではオスマン海軍に太刀打ちできなくなっていたベネチアは教皇に援助を求め、ローマ教皇パウロ3世が音頭を取ってベネチア、ジェノヴァ、スペイン、教皇領、マルタ騎士団の連合艦隊が結成されたが、実際のところスペインのカール5世やジェノヴァは教皇の手前、連合に参加したもののベネチアの利益のために戦うつもりは端から無かった。そのため「プレヴィザの海戦」ではオスマン艦隊に遭遇すると緒戦の敗北の後、ジェノヴァ人司令官アンドレア・ドーリアは戦力を温存して撤退してしまった。

これによりベネチアのギリシアにおける群島などは失われ、ベネチアは他のキリスト教国を当てにせずオスマン帝国に和を請い、以降、東地中海の制海権はオスマン帝国に移った。

香辛料貿易はポルトガルやスペインに抑えられつつあり、ベネチアは絹やガラス、レースなどの工芸品の輸出に活路を見出しており、オスマン帝国と争う気もなくなっていたが、以降も地中海に残る領土、キプロス島、クレタ島を巡って戦う破目になった。

最新

ページのトップへ戻る