1、2世紀の反乱により、パレスティナの地を追われたユダヤ人は、ローマ帝国の広範囲に離散した。
一般的に根拠地を失って離散した民族はそれぞれの定住した土地の現地人に同化して、民族としての独自性を失うものだが、ユダヤ人は言語と宗教に係わらない慣習についてはそれぞれの土地に同化したが、ユダヤ教とそれに係わる慣習*1は維持したため、ユダヤ人としてのアイデンティティを保つことになった。
*1 経典宗教は、生活の比較的細部まで指針や規則を持っているため、慣習の多くが宗教の影響を受ける。イスラム教は特に激しく、キリスト教も宗教改革までは、教会法が人々の生活を縛っていた。
つまりユダヤ人=ユダヤ教徒と言うことでもある。一般的には、ユダヤ教は積極的な布教活動はせず、ユダヤ教徒に改宗するということは、ユダヤの慣習も受け入れユダヤ人になるということである*2。一方、ユダヤ教からキリスト教に改宗しても、ユダヤの慣習をある程度維持し、既存のユダヤ人コミュニティと繋がりを保っていれば、ユダヤ系/民族的ユダヤ人(改宗ユダヤ人)との見方もあった。また、実際に、ユダヤ人への迫害が強い時には、表面的には他の宗教に改宗して、密かにユダヤ教を維持している者も多かった*3。
*2 但し、ハザールのように国全体で大規模に改宗した場合は、ハザール人のユダヤ教徒といった意識だったかもしれない。
*3 イベリア半島の異端審問の対象が、主にこの隠れユダヤ教徒で、迫害や追放を避けるためにキリスト教徒に改宗したが、ユダヤ教の信仰を保っていたため異端とされた。
多神教の頃のローマ帝国では、反乱さえ起こさなければ各ユダヤ人コミュニティは他民族と同等の権利を享受していた*4が、ローマ帝国がキリスト教を国教と定めると迫害が始まるようになった。
*4 もっとも、キリスト教成立以前から、独善的な世界観を持つユダヤ教徒はあまり好かれていなかったようだが。
元々、カトリックはひどく排他的な宗教で、カトリック世界になった11世紀以降には、イスラム教徒もパガン*5も存在を許されず、またキリスト教やカトリック内の異端*6も厳しく取り締まられていた中、カトリックとは異なる価値観を有するユダヤ教徒に対して偏見や嫌悪を持つのは当然であり、むしろ、いろいろな制限を受けながらも居住を許されていたユダヤ教徒はもっとも許容されていたとも言える。
*5 従来の多神教、アニミズムなど、経典宗教以外の信仰
*6 アリウス派、ネストリウス派、そしてワルド派、カタリ派など。
しかし、十字軍が1つの刺激になり、他宗教への敵対感、嫌悪感が高まり、身近な存在であるユダヤ人に向けられた。ユダヤ人への迫害に潜む感情としては、次のようなものが挙げられる。
・宗教的なもの。イエスの受難劇(Passion)の中でユダヤ人がイエスにした仕打ちを見て、それを現在のユダヤ人に投影する。また、十字軍で異教徒討伐を叫んだ時に、ユダヤ人が最も手近にいる異教徒であることを思い出した。
・偏見/中傷。ユダヤ教の儀式でキリスト教徒の子供を殺してその血を捧げるとのデマが広く浸透した。また、黒死病が流行した際、ユダヤ人集落での被害が少なかった*7こともあり、ユダヤ人が飲み水に毒を入れたとの風評が広まった。
・金貸し。カトリック世界ではユダヤ人のみが金貸しを行えた*8。また、中世初期には徴税代理人*9になるユダヤ人も多く、悪徳的な職業への蔑視、金の取り立てに関する恨み、裕福なユダヤ人への嫉妬などがあった。
むろん当初は、全てのユダヤ人が裕福だったわけではなく、各地にユダヤ人の集落や住居区域があり、そこには様々な職業と貧富があった訳だが、その外側から見えるのは、裕福な金貸しのユダヤ人であり、また、度重なる迫害のうちに、金貸しや貿易で裕福か、専門知識を持って、王侯の保護を受けられる者のみが残ることが多かったため、ユダヤ人=裕福、知識人といったイメージが定着したようだ。
*7 理由として、ユダヤ人とキリスト教徒の交流が少なかったこと、ユダヤ人の方が医療知識があり清潔だったことが挙げられるだろう。
*8 高利貸しと訳されることもあるが、金利に関係なく利子をとって金を貸すことを意味している。
*9 これも直接、税を取り立てる悪役であるため、人々に嫌われ、憎まれる。
王侯は一般的にユダヤ人を保護したが、これはユダヤ人から金を借りるため、そして立場の弱いユダヤ人の保護の代償として様々な形の献上金を取り立てられたからである。また、経済における金融の重要性を理解していた君主もユダヤ人を保護した。しかし、一般大衆からは、これらの動機は悪徳*10と見なされ、民衆の不満の対象となり易く、道徳的な君主やこれらの世論を考慮した有能な君主がユダヤ人を追放することもあった。一方、多少意外かもしれないが、ローマ教会は一貫してユダヤ人を保護している*11。
*10 歴史的に貨幣経済というのは一部の商人とそれと繋がる権力者のみが利益を受けるシステムと見なされがちである。
*11 少なくとも迫害は厳しく禁じているが、下級の狂信的な聖職者が迫害を煽動したり、先頭に立つことも多かった。異端審問はまた別の話である。
西欧においては、十字軍時代からユダヤ人への迫害が激しくなり、14世紀までには、イングランド、フランスからは公式に追放されていなくなり、彼らはスペイン、イタリアなどに移住した。一方ドイツでも迫害により、ポーランドへの移住が増えた。16世紀にはスペイン、ポルトガルではユダヤ人、イスラム教徒が追放され、それらからの改宗者*12への異端審問が厳しくなり、これらのユダヤ人の多くはオスマン帝国やポーランドに移住した。同時期に、ドイツ、オーストリア、ハンガリーでも追放が行われ、やはりポーランドへ移住し、ポーランドは一時期、全ユダヤ人の約3/4が居住していると言われた。また、新大陸への植民が進むと、ユダヤ人も大挙して移民した。
*12 追放、迫害を避けるために、表面上、キリスト教徒に改宗しているが、密かにユダヤ教の儀式を行っているものが多かった。
一方、17世紀頃になると西欧は再び、ユダヤ人を受け入れるようになり、スペイン、ポルトガル系のユダヤ人及び改宗ユダヤ人はフランス、イギリスへ、ポーランドでは、その衰退により再びドイツへと逆流が始まった。彼らは多少の差別は受けたが、公式で明白な差別はなく、経済的には大いに繁栄したが、民族主義の流れの中で、ドレフィス事件*13をきっかけとして、イスラエルの地にユダヤ人の民族国家を作ろうとの運動(シオニズム)が19世紀末に始まった。またユダヤ人による経済支配は民族国家を超えたグローバルなものでもあり、ユダヤによる世界支配という幻想*14を一部に生み出すようになった。
第一次大戦後に広がった全体主義体制は、民族意識が高まったユダヤ人を異分子として警戒し、排除しようとする傾向が強まり、ナチスの「最終的解決策」に結実する。
*13 ユダヤ系のフランス陸軍大尉であったドレフィスが冤罪を受けた事件。
*14 ヒトラーも世界大戦の原因がユダヤ人の策謀によるものだと述べており、ユダヤ人迫害を進める理由の1つとしている。