中世の王権

中世の王を表す言葉に「王は貴族の第一人者である」というのがある。つまり東洋の専制君主や近世の絶対王政と異なり、同等の仲間の中の筆頭にすぎないということである。

現代風に言うと領主同業者組合の会長のようなもので、実際、ドイツ(神聖ローマ帝国)では選挙王制*1が続き、フランスでも最初の王であるユーグ・カペーは諸侯による選出の形式を取っている*2。これらの領主・諸侯は元々はフランク王国における有力者・役人だったのが、フランク王国分裂後の内乱とサラセン、マジャール、ノルマン人などの外敵の侵入により混乱した9ー10世紀において世襲領主化したもので、フランス、ドイツでは王が貴族を作ったのではなく、貴族が王を選んだのである。

*1 新王朝は選挙で選ばれており、王朝内の世襲においても形式的には選挙を行なっている。
*2 その後、代々の王が自分の存命中に後継者を共同統治王にすることで世襲制を確立した。また、ドイツと違い、運良く直系男子継承が続いたせいでもある。

とはいえ、王はまた他の大諸侯・君主(プリンス)とは違った特別な存在でもあった。

第1にフランク王国などの王の統べる国という概念は残っていて、原則的には王の権限は全ての王国内の人、土地、事物に適用できるのである*3。しかし、実際には封建制の中では、封建領主はそれを認めず、その綱引きが王権の強化、中央集権化を巡る王と貴族の争いとなった。

第2にキリスト教においては、ダビデのように王は政教両面における権威であり、また救世主(メシア)は地上の王との意味でもあり、王は塗油により聖別された宗教的な存在でもあった。この考えが後に絶対王政における王権神授説のベースとなっている。

つまり、これらの特性を上手く利用すれば中央集権化を計り、絶対王政に持っていくことが可能なのである。

*3 これは日本で、朝廷が封建制の前に実権を失いながらも、概念としては律令制が残っていたのと似ているが、欧州の王は同時に封建制の頂点でもあり、この点で天皇と(征夷大)将軍を兼ねた存在だとも言える。

封建の形式には封建臣下が所有している領地を封建主君が承認・保護するものと、封建主君が所有している土地を臣下に貸与する形式がある。前者は封建臣下の所有物であり、後者は貸与であるため、理論上は主君が撤回・回収することが可能であり、より主君の権限が大きい。

ノルマンディ公が征服したイングランドでは王が全ての土地を所有し*4、貸与の形式で諸侯を封じたため、王権は当初から強力で、諸侯の領地はあちこちに散らばっており、州には王の任命した州長官(シェリフ)が存在して統治を行っていた。このような強力な王権に対抗するには諸侯は団結する必要があり、それが後のマグナ・カルタや議会制の確立に寄与している。

*4 現在でも、法的にはイングランドの全ての土地は英国(女)王の所有物で、国民はそれを貸与されているのである。

それに対してフランスとドイツはその土地を所有する諸侯の領地の集合体であり、王はその代表者として諸侯間の仲裁や外敵との戦争におけるリーダーとなることが期待されており、平時における領内への干渉や課税は現代風に言えば内政干渉であり、越権、横暴と見なされた。

このような弱体な王権を中央集権化するにあたって、フランスでは、婚姻、武力、購入により、全ての大諸侯領をフランス王領に併合することで実現した。カペー朝の初期にはパリの周りに点在するだけの王領が17世紀までには、ほぼフランス全土を覆っている。併合した領地は王族に親王領(アパナージュ)として再配分したり、新たに領主を封じても、それは貸与であり、王の影響力はずっと強くなっている。

一方、神聖ローマ帝国では、ザクセン朝において世襲化していた部族大公を再び、皇帝*5による任命制に戻し、皇帝が主要な大公位を兼ねることにより、支配力を強めたこともあったが、ザリエリ朝での叙任権闘争などによるローマ教皇との対立やホーエンシュタウフェン家とヴェルフ家の皇帝位争いの中で皇帝権力は弱体化し、ホーエンシュタウフェン朝末期にはドイツの諸侯領は半独立の領邦国家となっていた。大空位時代以降は一層、その傾向は強くなり、ルクセンブルク朝やハプスブルク朝の皇帝は名前だけのものとなり、ドイツの支配を諦め、自分の領邦を権力基盤としてその拡大に努めることに専念した。

*5 通常、慣例であるため皇帝と表現するが、実際の統治はドイツ王として行っていた。

全く余談だが、ヒッティーンの戦いからエルサレムの攻防を描いたキングダム・オブ・ヘイブンという映画について、ファンサイトなどで戸田奈津子の翻訳が批判されており*6、その中でエルサレム王女であるシビラに対してシドン領主であるルノー・ド・シャティヨンが随分、乱暴な口調で話しており、「有りえない」という批判があったが、上記のように王と領主は基本的に同等であるため、王の妹より領主の当主の方が上なのである。もちろん礼儀上は丁寧に話すのが普通であるが、ルノー・ド・シャティヨンは乱暴な男*7であり、あの場面では対立していたため、そのような話し方をしてもおかしくはないのである。

*6 彼女が多くの字幕を手掛けているためか批判を良く目にするが、そもそも、あれは短い時間で画面を説明する字幕であり、翻訳として批判するのは的外れに思える。
*7 十字軍参照のこと。

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