ルターの免罪符(贖宥状)に関する95ヶ条の問題提起が、宗教改革の始まりであることは良く知られているが、これはあくまできっかけであって、宗教改革、プロテスタント運動の本質という訳ではない。
日本にはキリスト教徒は少なく、キリスト教的文化・伝統もないため、教義や問題の本質については今一つピンとこず*1、漠然と堕落したローマ教会が金銭目当てに免罪符を乱売して、真面目な宗教者だったルターがそれを批判し大衆の支持を得たというイメージであるが、まず免罪符からして理解されていない。
*1 私自身、キリスト教の教義は漠然としか知らず、非信者の印象とご寛容願いたい。
免罪符を買うと犯罪を犯しても無罪放免になると思っている人すらいるが、対象となるのは宗教上の罪で、世俗の犯罪と刑罰が許される訳ではない*2。カトリックでは、人は告解して悔い改めることにより罪が赦されるのだが、天国に入る前に、魂の浄化のために、罪に応じた期間、煉獄にいなければならないとされている。その期間を短くするのが贖宥であり、善行、慈善など功徳を積むことにより可能となるが、善行には教会への寄付や聖遺物の崇敬、聖地への巡礼などが含まれる。
*2 例えば、盗みは世俗の罪として法に従って刑罰を与えられるが、同時に「汝、盗むことなかれ」と十戒にあるように宗教上の罪でもあり、罪が赦されないまま死去すると永遠に地獄で苦しむことになる。
そこで人々は折々に教会への寄付を行い、死ぬ前に多額の財産を教会に寄進した*3が、所謂「お布施は志」で、ある意味、青天井で庶民にとっては戸惑うところであった。
*3 「金持ちが天国に入るのは駱駝が針の穴を通るより難しい」と聖書にある。
この教会への寄付を明朗会計にしたがのが免罪符(贖宥状)だと言え、人気があったことから分かるように、人々に歓迎されたのである。
免罪符は14世紀頃から存在し、ルターも贖罪は個人の良心からくる行為であるべきで、金だけで済むような風潮は望ましくないと思いながらも、免罪符の販売自体は否定していない。
彼が最も問題と感じたのは、免罪符売りの修道士ヨハン・テッツェルが「コインが箱にチャリンと音を立てて入ると霊魂が煉獄から(天国へ)飛び上がる」*4と述べて売り歩いたと言われることで、この俗的な言い回しもさることながら、テッツェルの台詞は既に亡くなった先祖や親族、友人のために免罪符を購入するとその贖宥により魂が煉獄から抜け出す*5という意味であり、これはルターにとって「他人が代わりに善行を積んで贖宥できるか」という凄く重要な神学的問題だった。
*4 まあ庶民に分かり易い言葉で説明したのだと思うが、香具師の啖呵売の文句のようである。
*5 仏教では、遺族の供養により故人が救済されるのは当然なのだが・・・
また、免罪符を購入した人が、これで次に罪を犯しても贖宥されると認識していたのに対して、「まだ犯していない罪を免罪符で贖宥できるか」という問題もあった。
これらの疑問が、ルターが95ヶ条の問題提起をしたきっかけなのだが、元々過剰な免罪符の販売や高位聖職者、ローマ教皇庁の腐敗*6に批判的だったため、その中には第86条にあるように「クラッスス*7より金持ちの教皇が何故、聖ピエトロ大聖堂の改修に自分の金でなく、貧しい信者の金を使おうとするのか?」と教皇を直接、批判する文章もあり、既存のローマ教会の体制を否定・批判*8するものと見なされたようだ。
*6 より人間の本質・欲求に忠実で、ルネサンスの原動力とも言えるが
*7 ポンペイウス・カエサルと並んで三頭政治を行ったローマの大富豪だが、金持ちの代名詞だったようだ。
*8 免罪符批判は、ローマ教会が贖宥を与える権限を持っているのかという問題に繋がり、神の代理人を否定する可能性がある。
伝統的には、1517年10月31日に「95ヶ条の提起状」をヴィッテンベルク聖堂の扉に打ち付けたとされており、如何にも抗議行動のように見えるが、当時のヴィッテンベルク大学では何かを大勢に伝える場合、聖堂の扉に打ち付けるのが習慣で、大学内での議論のために行っただけのようである。むしろ、同日付けでマインツ大司教アルブレヒト*9に送付した免罪符販売に抗議した書状にその写しを同封したのがローマ教会への問題提起といえる。また、ルターの上司にあたるブランデンブルク司教にも送付している。
*9 大々的に免罪符を販売した張本人で、免罪符の売り上げの半分を受け取ることを教皇レオ10世と密約していた。
そこからさらに写しが作られ、ドイツ中に、そして2ヶ月後には全ヨーロッパ中に広まったが、一般大衆にまで知られるようになったのは1518年1月にルターの支持者が「95ヶ条の提起状」をラテン語からドイツ語に翻訳し、大量印刷して配布してからである。
1520年にレオ10世は回勅「エクスルゲ・ドミネ」で反駁し、自説を撤回しなければ破門すると警告したが、ルターは同年12月にヴィッテンベルク市民の面前で回勅を焼いて公然と拒否したため、1521年の回勅で破門され、さらに帝国から法の保護外とされたが、ヴァルトブルク城に避難し、ザクセン選帝侯フリードリヒ賢公に匿われた。
フリードリヒ賢公は何故、ルターを支持・保護したのだろうか?
彼は聖遺物コレクターで、ヴィッテンベルクの聖堂には5,000点を超える聖遺物が集められていたが、それを目当てにドイツ中から多くの信者が巡礼に訪れるため、拝観料に加えてその経済的効果が期待できるのである。信者が聖遺物の拝観(崇敬)に期待するご利益は贖宥であり*10、その点で免罪符とライバル関係にあると言える。
フリードリヒ賢公は領内での免罪符の販売を禁止していたが、領民達は他領まで出かけて購入したという。ルターの主張は彼の意に反するものではなかった。もちろんドイツ諸侯は元々ローマ教皇の介入に対しては反感が強く*11、領内から金がローマに流れることを苦々しく思っていたことも背景にはある。
*10 ヴィッテンベルク聖堂の全ての聖遺物を拝観すると贖宥1,902,202年を得られたという。
*11 もっとも皇帝との対抗上、教皇を必要とする面もあったが。
皇帝カール5世は皇帝選挙でフリードリヒ賢公に借りがあり、またこの問題により帝国が分裂することを恐れており、教皇レオ10世はカール5世に対抗するためにザクセン選帝侯のような帝国大諸侯の支持が必要だった。このため火刑となったフスとは違い、ルターは著作やパンフレットでの宣伝活動を続け、宗教改革を推進できたのである。