死生観

中世のヨーロッパの歴史を見ていると、当時の人達が本当に唯一神と死後の世界(天国、地獄、煉獄、辺土)の存在を信じていたことを感じる。

原始宗教はご利益が中心なのであるが、現実的には信じたからといってご利益がある訳はなく、人はご利益が少ないと思えば、ご利益を期待できる別の宗教に簡単に鞍替えしてしまう。そこで、3大宗教などの主要宗教では、ご利益を現世ではなく死後または来世におくことで、現世はむしろ、そのために苦難に耐える必要があると説いている*。こうして現世の苦難を肯定し、死後を憧れるように教えるため、それを信じる人々はむしろ死を願うようになる。しかし、簡単に死なれると労働力不足になってしまうため、自殺は神の意志や摂理に反した行為のため死後において苦難を受けるとし、禁じられることになった。

* ヒンズー教では、輪廻の中で、現世のカーストで苦難に耐えれば、来世は上のカーストに行けるとして、カースト制度を維持している。

* 仏教では、現世で苦難に耐えることで、輪廻から逃れて成仏し永遠の存在となるのが本来の教えであるが、浄土(真)宗などでは西方浄土(極楽)に行けるとしている。

十字軍が人気のあった理由は、通常は相反する現世の利益と死後の利益の両方が期待できるからである。運悪く戦いで命を落とせば殉教者として天国行きは保証され、運良く聖地にたどり着けば現地の富を得た上、聖地巡礼によって多くの罪が免罪となるのである。

アルビジョワ十字軍でベジエの町を落とした際に、アルビジョワ派(カタリ派)と他の者をどうやって区別すれば良いか聞かれた教皇特使が、「皆殺しにしろ。誰かは神が知りたもう」と述べたのは現代の感覚では残酷で無責任の限りであるが、当の教皇特使にしてみれば、異端でない者は天国に行けるのだから、むしろ喜ばしいことだと本気で思っていた可能性がある(ただし、彼が狂信的な聖職者だからで、普通の人間はさすがに眉を顰めている)。

当時の人々は何故それほど天国の存在を信じることができたのだろうか?現代の我々でも、実は信じていることの大部分は自分の目で見て体験したことではなく、メディアの報道などで知っているだけなのである。結局信頼できると思う人々が語っていることを信用している訳であるが、中世において知識があり信用できる人の代表は聖職者であり、彼らが唯一神や天国が実在すると述べている以上、信じるしかないのである。また、実際に天国に行ってきた、あるいは天使と会ったと証言する人も多かったわけで、ジャンヌ・ダルクなどの聖人も天使から神の命令を受けたと述べているのである。彼らが尊敬されるなら、その言は信用されるであろう。

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