実はアヴィニョン捕囚という言葉はなく、本来は教皇のバビロン捕囚と呼ばれるもので、新バビロニア王国によるユダヤ人のバビロン捕囚に例えられているのだが、これは全く実態とは違っている。
教皇がアヴィニョンから出れらないとか、ましてやアヴィニョンで軟禁状態にあった訳ではない。アヴィニョンは教皇領であり、貴族やローマ市民の影響を受けるローマとは違い、君主として豪勢な生活を送ることができ、もちろん自由に教皇として各地を訪問して活動することができた。
教皇のバビロン捕囚という言葉は、教皇権がフランス王の影響下に入ってしまったことについて、それに反対の立場から後に比喩されたもので、当の教皇自身の感覚とは全く違うものである。
アナーニ事件に至った遠因は教皇庁自身にある。皇帝憎しのあまりホーヘンシュタウフェン家を滅亡させ、シチリア王国をフランス王族のシャルル・ダンジューに領有させ、神聖ローマ帝国を大空位時代にしてしまったためである。一見、これにより教皇権は強まったかに見えるが、プランタジネット家が失墜して後、フランス王と皇帝がヨーロッパ世俗君主の2強であり、そのバランスが崩れ、圧倒的にフランス王が強力になってしまったのである。教皇権は所詮、世俗君主間のパワーバランスを操作することによって保たれるもので、圧倒的な存在が生まれればその意味は少なくなる。これまでフランス王は親教皇の筆頭であったが、それもカペー朝の王権が弱体であったため、やむを得ず教皇権と結びついていただけで、世俗君主にとって教皇は潜在的に対立する存在であることに変わりない。
皇帝対教皇の争いは凡ヨーロッパ的権威を争い、結果として教皇の勝利に終わった訳だが、教皇対フランス王の争いは凡ヨーロッパ対国家分権の争いで、フランス国内の事柄はフランスで決定し、その最高権威は国王が有するという考えである。フランス王フィリップ4世は三部会を開いて、各身分に対して支持を訴えたが、フランス国内の聖職者たちも国内の聖職者の人事は教皇の命令を受けず自分たちで決定したいと考えていたため、過半がフランス王を支持した。カノッサ事件のように、教皇の権力は所詮、対立する相手の敵対勢力を煽動することで発揮されるため、フランス国内の意見が王支持で一致してしまうと効果は半減する。
一方、教皇は凡ヨーロッパ的権威を持ちながらも実際は、イタリア内、そしてローマ内の貴族の勢力争いに強く影響を受ける不安定な立場でもあった。それを利用してフランス王臣下のギヨーム・ド・ノガレがローマの貴族コロンナ家と協力して教皇を捕らえたのがアナーニ事件である。
アナーニ事件で傷ついた教皇権は、次の教皇が短期間で急死した後、新たな教皇を1年近く選ぶことができず、結局、フランスの強い影響によりクレメンス5世が選出された。ボルドーにいた新教皇はリヨンで戴冠し、ポワチエに滞在した後、貴族間の抗争が激化しているローマに行くことを避け、シチリア王のアンジュー家領(フランスの勢力圏下でもある)であるアヴィニョン(後に教皇領)に居を構えたのである。
クレメンス5世以下のアヴィニョン教皇もフランス王の言いなりという訳ではなかったが、大量のフランス人枢機卿を任命し、テンプル騎士団の解体に同意するなど、フランス王の強い影響下にあったことは否めなず、凡ヨーロッパ的権威、公正な仲裁者としての権威を失っていた。
歴代のアヴィニョン教皇はフランス出身とはいえ、フランス王の強い要求に従うことは不愉快であったろうし、ローマ教皇はローマに居るのが当然という考えもあったであろう。百年戦争によりフランス王の権力が弱まったことも寄与しているが、グレゴリウス11世がローマに戻ったのは、教皇の不在中に教皇領がフィレンツェやミラノなどの勢力や教皇領内の潜主などによって失われつつあったためで、先代のウルバヌス5世の頃から帰還を模索していたが、各勢力間の調停が進まなかったため実現できなかったのである。
しかし、グレゴリウス11世はローマに帰ってまもなく死去し、次に選出されたウルバヌス6世はフランスの枢機卿の支持を得られず、フランスの枢機卿たちは独自にクレメンス7世を選出しアヴィニョンに置き、反フランス、親フランス勢力がそれぞれを支持したため、ここに西方教会大分裂となり、一層、教皇の権威は失墜していく。