アルバニアの英雄スカンデルベグ

アルバニアの英雄スカンデルベグ(1)

対オスマン戦でローマ教皇から「キリストの戦士」の称号を与えられたのは、ハンガリーのフニャディ(b.1407頃 – d.1456)、モルダヴィア*1のステファン(b.1433 – d.1504)、そしてアルバニアのスカンデルベグ(b.1405 – d.1468)で、いずれも、その当時からキリスト教世界の英雄と賞賛され、近代においてはバルカンでの民族主義の勃興がオスマン帝国からの独立と連動しているため、民族的英雄とも見なされるようになった。

*1 現代のルーマニアの一部とモルドヴァを合わせた地域。

いずれもオスマン帝国の近隣に位置したため戦わざるを得なかっただけで、キリスト教世界のために戦ったとは思えないが、政治家、君主として多面的な利害を持って行動したフニャディやステファンと比べると、スカンデルベグが最も行動に一貫性があり、他者に誠実だった点で、戦士、英雄の称号が相応しいかもしれない。

アルバニア人は古くからアルバニアの山岳地帯に生息していたが、独自の国家を持ったことはなく、ビザンティン帝国やブルガリア帝国、エピロス専制公国、セルビア王国などの支配下にあり、セルビアの崩壊後にアルバニア人豪族達は一時的に自立したが、まもなくオスマン帝国の支配下に入った。

アルバニア人豪族の1つであるカストリオティ家の四男だったジェルジは18歳の時にオスマン帝国に人質として出された。強制的に徴収されるイェニチェリなどのカプクルとは違い*2、これらの人質はイスラム教への改宗は強制されなかったが*3、家を継ぐ可能性の少ないジェルジは、勢力拡大の著しいオスマン帝国で軍人として栄達する道を選んだようである*4。

*2 キリスト教徒の子供から強制徴収(デヴシルメ制度)され、イスラム教に改宗させられた上で軍人としてのエリート教育を受け、スルタンの直属軍としてオスマン帝国の精鋭部隊を構成した。
*3 ワラキアのヴラド串刺し公と弟ラドゥもオスマン帝国の人質だったが、後者はイスラム教徒になり、前者はキリスト教徒のままだった。
*4 オスマン帝国の軍人として栄達するにはイスラム教に改宗する必要があった。

彼は体力、知力共に軍人としての資質に恵まれており、アレキサンダー大王にちなんだスカンデルの名をもらい、順調に出世してベグ*5となり、1437-38年にはクルヤの知事を務め、1440年にはサンジャク・ベグ*6になっている。この間、父ジョンが1330年に、近隣のアリアニティやトーピアといったアルバニア豪族達が1432−1436年に反乱を起こしているが、それに組することはなかった。

*5 将軍職であるパシャの下の佐官クラスの称号。これによりスカンデルベグが通称となった。
*6 軍管区(サンジャク)の長であり、結構な高官である。

しかし、隣接するベネチアやアルバニアの豪族達との関係は維持しており、また、父ジョンの所領は反乱後に大部分が没収され、彼はその一部を所領(ティマール)として与えられていたが、それも1438年に他者に与えられ*7不満を持ったようだ。

*7 その後、サンジャク・ベグに昇進しており、叱責とか左遷ではなく、父祖の地との繋がりを警戒されたのだろう。

1443年からのヤノーシュ・フニャディの「長征」により、キリスト教連合軍は大幅な失地回復を遂げており、その1つの「ニシュの戦い」ではスカンデルベグ自身が300人のアルバニア兵と共に出陣していたが、フニャディの奮戦を見てキリスト教側に戻ることを決意したようである。戦場を離脱し、クルヤの知事に任命されたとするムラト2世の任命書を偽造してクルヤとその周辺地域を占領し、キリスト教*8に再改宗してオスマン帝国へ叛旗を翻した。

*8 元々、正教徒だったが、1439年のフィレンツェ公会議以降、少なくとも合同賛成派にとっては東西教会は合同しており、東方典礼カトリックだったと言える。

翌1444年にアルバニアの有力豪族をレジャ(アレッシオ)に集めてレジャ同盟を結成し、自ら軍司令官となってオスマン帝国への反抗を宣言した。これに対して、早くも6月にはオスマン軍のアリ・パシャ率いる討伐隊が派遣されるが、満を持して待ち受けたスカンデルベグは「トルヴィオルの戦い」でこれに大勝して意気を上げ、彼の武名はヨーロッパ中に響くことになった。

ところが、同年11月の「ヴァルナの戦い」でフニャディ、ヴワディスワフ3世のキリスト教連合軍は大敗する。ムラト2世は過去の自分の厚遇を指摘し、帰順を説いた手紙を送ったが、スカンデルベグはこれを拒否して抵抗の姿勢を示したため、1445、1446年と討伐軍が送られたが、いずれも撃退している。

オスマン帝国とだけ戦っていた訳ではなく、アルバニアの一部を領有するベネチアとも、1447-8年に領土を巡って戦っており*9、この時期にナポリ王*10でもあるアラゴン王アルフォンソ5世と親交を深め、援助を受けると共にナポリの反乱への援軍を送ったりしている。

*9 ベネチアとの関係は複雑で、以前から領土争いや影響力の拡大への警戒があったが、商業的、文化的関係も強かった。
*10 1442年にナポリ王となる。ナポリはアドリア海におけるベネチアのライバルである。

1448年にはベネチアと歩調を合わせて、ムラト2世自らが大軍を率いてマケドニア国境のスベチグラッド城を包囲・開城させており、これでアルバニア中央部への道が開け、8月にはムスタファ・パシャが侵攻してきたがこれは撃退している。

形勢不利なベネチアは和睦を選び、スカンデルベグもフニャディがコソボ侵攻の用意をしていることを知らされ、それに加わるべく和睦に同意した。ところが、セルビアのデュラド専制公の妨害を受け、第二次コソボの戦いには間に合わず、フニャディのハンガリー連合軍は敗北している。

アルバニアの英雄スカンデルベグ(2) - ピュロスの勝利

「第二次コソボの戦い」での勝利によりオスマン軍の攻勢は強まり、1450年にベラトが奪われ、11月にはムラト2世自らが10万とも号する大軍を率いてスカンデルベグの本拠地クルヤを包囲した。豪族達の中にはオスマン側に帰順する者もいて、アルバニアの士気は落ちていたが、天使を見たとの証言が現れ、スカンデルベグ自身が聖ゲオルグが炎の剣を持つ夢を見たと主張して、キリスト教的モラルを昂揚させた。

この戦いでは、スカンデルベグの将才が遺憾なく発揮された。城には武将のブラナ・コンチを置き、自分は主力を率いて遊軍として奇襲や補給への攻撃を行ってオスマン軍を苦しめたため*11、包囲は5月から11月まで6ヶ月続いたが、冬がくる前に城を落とすのは不可能だと判断してムラト2世は引き上げた。ムラト2世はまもなくアドリアノープルで死去しており、この時に受けた傷が元だとも言われる。

*11 通常は機を見て城から少数の遊撃部隊を出撃させる。遊撃部隊を主力として主将自らが率いるのは大胆な行為である。

西欧では大きな賞賛を受けたが、スカンデルベグの勝利は多分に「ピュロスの勝利」*12であった。アルバニアが小勢でオスマンの大軍に勝利するのは、他者からすると爽快であるが、いくら被害を受けてもオスマン軍は(アルバニアと比べると)無限とも言える人的・物的リソースの元で、すぐに同規模の軍を派遣するのに対して、アルバニアの小勢は戦う度に減っていくのである。

また、戦いの勝利は、敵地を奪ったり、敵地での略奪によって利益を得るが、自領での戦いの勝利や防衛に成功しても、失うものが多く得るものは少ないのである。

*12 古代ギリシアの名将ピュロスはローマに何度も勝利をしたが、自軍の被害も大きく、このまま勝利を続けても破滅すると感じたため、割に合わない勝利を意味するようになった。

スカンデルベグに従っていたアルバニアの豪族達は別にオスマンの支配下に入ることが凄く嫌な訳ではないのだ。オスマン帝国には既に多くの正教徒が住んでおり、オスマンの命令に従い、ジズヤ(人頭税)を払えば暮らしていけるのである。豪族達は自儘に自立する方が望ましいため反乱に参加したものの、このように無限に戦争が続けば消耗するばかりで、オスマンの支配下で暮らす方がマシということになる。

こうして先の見えない戦いの中で、レジャ同盟から豪族達は離脱していき、1451年にスカンデルベグの下に残っているのは本拠地クルヤ周辺と直属の兵のみで、事実上、レジャ同盟は機能しなくなっていた。重大な資金不足の前にスカンデルベグはナポリ王アルフォンソ5世の封臣となり、同様に他のアルバニア豪族もそれぞれがナポリ王の封臣となった。スイスのような地域的誓約者同盟だったのが、ナポリ王を宗主とする体制に代わったといえる*13。この後、スカンデルベグは有力豪族ジェルジ・アリアニティの娘と結婚しており、アリアニティとの同盟が強化されている。

*13 元々、シャルル・ダンジューの頃から14世紀末までアルバニア(ドゥラッツォ)は名目上はナポリ王国の宗主下にあった。

1453年のコンスタンティノープルの陥落により、西欧は危機感を持ち、アルバニアへの援助も増加したが、1455年にアラゴン/ナポリの人的・金銭的援助を受けて行ったベラト包囲は失敗に終わり、特にアルバニアの地に慣れていないアラゴン/ナポリ勢は壊滅し*14、アルバニア兵も大きな被害を受けた。有力な指揮官の1人モイシ・アリアニティ・ゴレミはオスマン側に寝返り、翌年オスマン軍と共にアルバニアに侵攻してきたが、「オラニックの戦い」でスカンデルベグに敗れて、1457年に再びアルバニアに復帰して赦しを得ている。

*14 他所からの援軍は、土地勘がなく、功名に逸りがちで、自分を客人と見なして自儘に行動するため、効果が少なく害になることが多い。

しかし、さらに豪族の離脱は続き、1457年には甥のハムザ・カストリオティがオスマン側に寝返り、7万人と号する大規模なオスマン軍と共に侵攻してきたが、これを「アルブレナの戦い」で撃破しハムザを捕らえた。これは、もっとも輝かしいスカンデルベグの勝利と評されている。以降、オスマン側への寝返りは見られなくなり、1460年にはオスマンとの休戦も成立して、アルバニアはしばしの休息を得ることができた。ローマ教皇カリストゥス3世に働きかけ、教皇庁における対オスマン戦総司令官に任命され、「キリストの戦士」の称号も与えられたが、実際に得られた援助はガレー戦1隻、金3000デュカートとわずかだった。

1458年にアルフォンソ5世が亡くなり、ナポリ王の跡を継いだフェランテ(フェルディナンド1世)は庶子だったため、その立場は不安定であり*15、対オスマン戦で支援するどころか、ナポリ王国内の反乱対処のためにスカンデルベグに派兵を頼む始末だった。リミニのマラテスタやタラント公のオルシーニなどは反乱を支援しており、スカンデルベグの関与を止めようとしたが、スカンデルベグは「ナポリ王家には恩義があり、困難な時であれば尚更である」と答えて、自ら鎮圧にあたった。感謝したフェランテはナポリ王国内の所領を与え、後のスクターリ陥落後に多くのアルバニア人亡命者を受け入れている。

*15 庶子には本来、相続権はない。ナポリは世襲領ではなく、アルフォンソ5世の征服地としてフェランテに与えられたが、ナポリ王国の名目上の宗主であるローマ教皇は反対していた。アラゴン王は弟のフアン2世が継いでいる。

アルバニアの英雄スカンデルベグ(3)

ベネチアにとって、スカンデルベグはアルバニアにおけるライバルであり、アドリア海のライバルであるナポリ王国の同盟者/封臣であるため利害が対立することも多く、またオスマン帝国に対しては通商を優先し宥和策を基本としたため、全面的に敵対しているスカンデルベグには距離を置いていたが、アルフォンソ5世の死により関係は改善され、教皇ピウス2世の働きかけもあり、1463年に対オスマン戦を決意すると全面的な同盟関係に入った。

1464年の「オフリドの戦い」でベネチアと共に勝利するが、同年にピウス2世が亡くなり、十字軍構想は消滅した。

これまで敵対関係が続いているとは言え、オスマン帝国にとってアルバニアは数ある征服対象の内の弱小なものの一つに過ぎなかったが、教皇の対オスマン十字軍の呼びかけに答えて、休戦を破棄して*16、海の大国ベネチア、陸の大国ハンガリーと同盟すると喉に刺さったトゲのような存在になってきた。

*16 オスマン帝国は小まめに休戦しながら、多方面での同時対決を避ける方針を取っており、ベネチアとの開戦のためにアルバニアとは休戦していた。

ここで遺恨が発生することになった。これまでは、オスマン帝国にとっては良くある小領主の抵抗であり、スカンデルベグにとってもオスマン軍はかっての仲間であり、立場の違いによって戦っているに過ぎないと認識していただろう。しかし、メフメト2世は休戦を破ってオスマン帝国に脅威を与えたスカンデルベグを憎むようになり、オスマン軍の裏切り者、イスラム教の背教者(apostasy)と考えるようになったようである。

アルバニアの農民から強制徴収されサンジャク・ベイにまで出世したバラバン・バデラ*17が対アルバニア戦を担当するようになり、1465年の「バイカルの戦い」でモイシ・アリアニティ・ゴレミを含むスカンデルベグ軍の幹部を捕らえてコンスタンティノープルに送ったが、メフメト2世はモイシが以前、オスマンから寝返ったことを咎めて他の幹部と共に非常に残酷な方法で処刑し、その死体は犬に食わせたという*18。スカンデルベグは捕虜交換か身代金による返還を懇願していたが、これを聞いて復讐を誓ったと思われる。同年に再びバラバン・バデラが侵攻した際には、スカンデルベグが勝利したが、報復として捕虜を全て処刑したため相互の憎悪が拡大した。

*17 経歴はスカンデルベグと似ているが、農民出身であるため敵愾心があったと思われる。
*18 反抗するアルバニア人を謀反人として扱っている。

1466年にはメフメト2世は自ら大軍を率いてクルヤを包囲した。数ヶ月の包囲で落ちないことを見たメフメト2世は後をバラバン・バデラに任せて、クルヤに対抗できる城塞都市として現在のエルバサンの建築に取り掛かった。冬を越える長期戦に資源の不安を感じたスカンデルベグは冬の間にイタリアに渡り教皇パウロ2世に援助を求めたが、多大な名誉とわずかな資金を与えられただけだった*19。しかし、アルバニアに戻ると攻勢に出て、仇敵となったバラバン・パシャとその兄弟を討ち死にさせ恨みをはらした。その後、エルバサンを攻撃したが落とすことはできなかった。

*19 わずか2300デュカートで、スカンデルベグ一行は宿泊代すら不自由したといわれる。ちなみにデュカートはベネチアの金貨を元にした単位で、フイレンツェのフローリンと同じ大きさで約3.5gの金を含んでいる。

1468年からの再度のメフメト2世のクルヤ攻撃にも耐えたが、アルバニア側の被害も甚大であり、スカンデルベグは1469年1月に体制を立て直すべく再びレジャにアルバニアの豪族を召集したが、まもなく病死した。

約25年間に渡る十数度のオスマン軍との戦いの大部分に勝利し*20、アルブレナなど数度の戦いでは数的多数のオスマン軍に快勝しており、ムラト2世、メフメト2世が親征したクルヤ包囲戦も全て撃退している。

*20 特に自ら指揮した戦闘では、ほとんど不敗だった。

他に比較できない位の戦功*21であり、地元山岳地、少数精鋭という条件付きだが稀代の名将だった。しかし、その重要性という面では教皇庁がスカンデルベグに援助した資金の総額が2万デュカートであることから察することができる。当時のイタリアの中規模の傭兵隊長の年間契約額程度であり*22、所詮、山中の貧しい地域であり、スカンデルベグの戦略的価値はその程度だったということである*23。

*21 ハンガリーのフニャディはヴァルナと第二次コソボという大戦に負けており、最後にベルグラードを死守したことで印象が良くなっている面がある。モルダヴィアのステファンの敵はハンガリー、ポーランドなど多面に亘っており、オスマン帝国はその一つに過ぎない。ワラキアのヴラド串刺し公の戦いは数年である。
*22 傭兵騎士1人あたり年額約70デュカートだった。つまり総額でも騎士300人を1年しか雇えないのである。
*23 山中の土豪という偏見もあり、服装も素朴だったため、ローマ教皇庁では貧相な老人と軽く見られた面もある。

元オスマン軍の高級軍人だったのが寝返ったことと、キリスト教側がその戦功を吹聴し、「オスマン恐れるに足らず」と宣伝したため、オスマン側も少しムキになった面がある。スカンデルベグの活動範囲はせいぜいマケドニアの国境までで無視しても大差なかったのである*24。

*24 アルバニア山岳部を支配下に入れると海岸部のベネチア支配下の都市を攻撃し易くなるが、海軍による封鎖も必要であり、すぐに手が付けられるものではなかった。

彼にキリスト教戦士としての自覚があったのだろうか?

38歳までイスラム教徒として過ごしてキリスト教に再改宗したスカンデルベグは確固とした宗教的信念を持っていたというより、その時の必要に応じて改宗しただけのようであり、彼の本質は骨の髄まで武人である。宗教的云々は配下の兵を励まし、世俗的利害を超えた一体感を得るためであり、またキリスト教社会の援助を得るためだっただろう。キリスト教的殉教を目指していた面もなく、早くからベネチア、ナポリと話を付け、最悪の場合の逃げ場所を確保している*25。

*25 同盟の条件に含まれている。少々、英雄のイメージから外れるかもしれないが、現実的で有能なビジネスマンなら当然考慮するリスク管理だろう。

しかし、彼が与えた影響は結構、大きかった。当時のキリスト教社会では英雄と称えられ、後世まで様々な物語が作ら、対イスラム、対オスマンの象徴とされた。一方、スカンデルベグ後のアルバニアでは彼の一族と与党はナポリ王国に亡命しており*26、残ったアルバニア人はオスマン帝国の下で大部分はイスラム教に改宗して軍人や役人として活躍する者が多く、スカンデルベグの名前も忘れられていたが、オスマン帝国の衰退と共にその支配下にある民族において民族主義と独立の機運が高まると、スカンデルベグはオスマン帝国の征服に抵抗したアルバニアの民族的英雄と称えられることになった。

*26 南イタリアには多くのアルバニア系の村が存在したらしい。

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