三大修道騎士団と言われ、先行のテンプル騎士団とホスピタル(聖ヨハネ)騎士団を模倣して創設されながら、ドイツ騎士団は次の点で他の2つとは異なっている。
・他の2つが第1回十字軍の成功後に作られたのに対して、エルサレム陥落後の第3回十字軍中に創設された。
・聖地騎士団は本来、国際的な性格を持つが、名前通りドイツ人中心だった。
・活躍が聖地より北方十字軍やバルト地域の征服が主で、広範な領域を有する騎士団国家を作り上げた*1。
元々、第1回十字軍はフランス・イタリア勢が中心で、この後にできたテンプル、ホスピタル騎士団共にロマンス語系の人々が中心だった。ドイツでは神聖ローマ皇帝が叙任権問題などでローマ教皇と対立していた為*2、十字軍にはあまり参加しておらず、レバントでもロマンス語*3が中心だったが、第3回十字軍ではフリードリヒ1世バルバロッサが本腰を入れて参加し、次のハインリッヒ6世も1197年の十字軍を行った為、ドイツ系の騎士団が望まれるようになった。
*1 ホスピタル騎士団のロードスやマルタも騎士団国家であるが、あくまで軍事拠点として小さな島を領有するだけだった。
*2 そもそも対立教皇を立てていた為、十字軍を発起したウルバヌス2世を認めていない。
*3 リンガ・フランカはフランス語というより、オック語を中心としたロマンス諸語の混成語だったようだ。
ホスピタル騎士団にはドイツ人用のホスピス(巡礼者用宿泊所 兼 医療施設)が存在したが、1190年のアッコン包囲時にリューベックとハンブルクの商人がホスピタル騎士団の施設に似た野戦病院を作り、1192年に教皇ケレスティヌス3世に承認され、1198年にテンプル騎士団を模した修道騎士団に改組されたのがドイツ騎士団である。
当初は、エルサレムに代わる聖地の臨時首都だったアッコンを本拠地にし、1220年にアッコンの北東に位置するモンフォール城を購入し、1271年にマムルーク朝に奪われるまで本拠地としたが、聖地では歴史が浅い為、テンプル、ホスピタル両騎士団の後塵を拝することが多く、1209年に総長となったヘルマン・フォン・ザルツァは神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の腹心として政治感覚に優れており*4、騎士団の未来を東欧地域に見出していたようだ*5。
*4 フリードリヒ2世は第6回十字軍で示したように十字軍に対してユニークな考えを持っており(ホーエンシュタウフェンの落日 参照)、その影響もあったのだろう。
*5 同じ領地を得るなら、ドイツ人にとっては十字軍のレバントやレコンキスタのイベリア半島より北方十字軍のバルト方面の方が望ましかった。
1211年にはハンガリー王エンドレ2世*6の招きによりトランシルバニアに領土を与えられ、クマン人*7の侵入を防ぐとともにドイツ人(ザクセン人)の入植を推進し保護する役割を果たしたが、教皇ホノリウス3世と交渉して教皇直属地に変えようとしたため、1225年に追放された。
*6 評判の悪い王で、第5回十字軍での失敗やハンガリーの凋落を招いた要因として知られる。
*7 キプチャク平原から黒海北岸にいた遊牧民族でトランシルバニアにしばしば侵入したが、後のモンゴル襲来時に大挙してハンガリーに移住し、近世にはハンガリー人に同化している。
一方、1198年からバルトの多神教徒への北方十字軍が始まり、1202年にリボニア(帯剣)騎士団が作られ、ラトビア、エストニア方面を征服していたが、プロシアのバルト諸部族は手強い抵抗を示し、しばしばポーランドに反攻して略奪を行っていた。
このため、ポーランドのマゾフシェ公コンラートは1225年にドイツ騎士団を呼び寄せ、プロシア諸部族に対する防衛を担当させようとしたが、騎士団総長ザルツァはハンガリーでの失敗を踏まえて、まず皇帝フリードリヒ2世からプロシア征服を認めるリミニ金印勅書を得て法的な立場を強化した*8。
*8 マゾフシェ公は当然、騎士団領をポーランドの宗主下と考えていたが、金印勅書により神聖ローマ帝国直属の地位を与えられることになり、ポーランド側は不満で後の対立の原因となった。
この時点では、ドイツ騎士団の関心はフリードリヒ2世の第6回十字軍(1228年)にあり、プロシア征服は1230年にわずか7人の騎士*9を派遣したところから始まった。
*9 正規メンバーの騎士(貴族)の数で、従士が70-100人いた。いずれも騎乗しており、傭兵や現地の雑兵などを率いるため、そこそこの戦力ではある。
東方征服 ドイツ騎士団
東方征服 ドイツ騎士団(1) - 三大聖地騎士団
東方征服 ドイツ騎士団(2) - 北方十字軍
カトリックの視点で見ると、後のアフリカ、新大陸、南洋のような未開な野蛮人をキリスト教で教化しながら支配下に入れていくとのイメージがあるが、ビザンティンの影響を多少受けているバルト人は決して未開でも野蛮人でもなく、文化レベルは当時の北部ドイツ人やポーランド人と同等だっただろう*10。
*10 ポーランドとは以前から抗争しており、少なくともポーランド並の文化・軍事レベルはあったはずであり、マゾフシェ公はその攻勢に耐えかねてドイツ騎士団を呼んだのだ。
従って、バルト人の抵抗も激しく、ドイツ騎士団の征服はすんなり順調に行ったわけではないが、バルト人は部族に分かれて統一されておらず相互に歴史的対立があり、またカトリックに改宗すれば攻撃されずに済む*11ため協力体制が取りにくいのに対して*12、ドイツ騎士団は十字軍として他の西欧*13から常に物的・人的援助を受けながら継続できるため、個々の戦いでバルト部族が勝利しても、結局、相継ぐ戦争の被害に疲れてカトリックへの改宗を選択し、徹底抗戦する者は殺されるか逃亡することになった。騎士団によるプロシア征服はクルムランドから始まりヴィスワ川沿いに城砦を築いて勢力を広げ、1260年までにプロシアの過半を支配下に収めていた。
*11 多くの多神教徒にとっては宗教は利益があるかどうかで、カトリックの方が有利と見れば改宗することになる。メロビング朝のクロヴィスの改宗が正にそうだった。一方、一神教徒は、しばしば殉教を選択する。
*12 結局、リトアニアだけが早めに協力体制を作り、ミンダウカスの下で統一されたため有効な抵抗を行うことができた。1253年にカトリックに改宗しているが、1260年のプロシアの大反乱時に多神教に戻ったようだ。
*13 西欧全般から個々の参加もあるが、ドイツ東部の諸侯の参加が大きい。リヴォニア、エストニア方面では北欧諸国の寄与が大きい。
修道騎士団の強さは、その資金力により装備が良いこと*14、修道士として家族を持たず聖戦で戦死することを名誉と考えるため命を惜しまないことにある。
修道騎士団の戦い方は、しばしば作戦も何もなく突撃するだけであるが、最新の甲冑で身を固めた決死の騎士に飛び込まれると余程、組織的に統制の取れた敵でなければ怖気づいて楔を打ち込まれることになり*15、混乱した所を、それ程、戦意旺盛ではないが数は多い諸国から集まった十字軍士や地元の同盟軍が続くことにより戦果を拡大した。
またバルト地域ではあまり堅牢な城は作られず*16、攻城兵器も持たなかった為、ドイツ騎士団は要所々に堅牢な城を築くことで支配地域を広げて行くことができた。
*14 聖地騎士団には西欧中から寄付・寄進が集まり、多くの所領を経営する上、金融や医療その他のサービスによる収入があり、さらに騎士団に入る貴族の子弟は相当の財産を持参するが、彼らが死去すると全て騎士団の所有物となるため非常に裕福で、装備は最新・最高の物を使用できた。
*15 将棋で言えば、単純な棒銀と穴熊戦法(城砦での防衛)であるが、素人では受けきることが難しいのと似ている。
*16 西欧では十字軍の後にイスラム・ビザンティンの技術を導入して築城技術が発達していた。
この期間の重要な事件としては、ラトビア・エストニアを征服していたリヴォニア帯剣騎士団がサモギティアを巡って1236年の「ザウレの戦い」でサモギティア・リトアニア軍に敗れ、ドイツ騎士団と合併したこと*17と、1241年に「レグニツァの戦い」でモンゴル軍にシロンスク公を中心としたポーランド連合軍が完敗し、元々王がいなく各公が割拠状態だったポーランドは一層の分裂と混乱に陥り、プロシアへ関与する余裕がなくなったことである。またルーシ方面への進出は1242年の「氷上の戦い」でノブゴロド公国のアレクサンドル・ネフスキーに敗れて頓挫している。
*17 以降、ドイツ騎士団内のリヴォニア騎士団として存続した。サモギティアはプロシアとリヴォニアの間に存在し、ここを征服すると騎士団領土は一つに繋がるため、ドイツ騎士団とリトアニアは継続的に争うことになる。
リトアニアでは1253年にミンダウカス王がカトリックに改宗し、ドイツ騎士団とも和睦してサモギティアの多くを割譲したが、リトアニアでは不評で貴族達は奪回を図り、1260年のドゥルベの戦いでドイツ騎士団に大勝したが、この勝利はキリスト教より多神教の方が優れている証明と考えられ、プロシアの大反乱が発生した。また、ミンダウカス王の権威は低下し、1263年に暗殺されて、リトアニアは抗争の時代を迎え多神教に戻っている。
聖地ではマムルーク朝の攻勢に対する防衛で手一杯であり、ドイツ諸侯は大空位時代を迎えて抗争に忙しく援助できず、1274年までドイツ騎士団の征服事業は中断し反乱の鎮圧に費やされることになる。
しかし、ドイツの情勢が落ち着くと共にチューリンゲン方伯、ブランデンブルク辺境伯、マイセン辺境伯などが支援を始め、1283年までにプロシアはほぼ平定され、その後も反乱はあったが、13世紀末までにプロシアの支配は確立した。
生き残った者の多くはリトアニアに逃れ、降伏した者は権利を奪われて他の地域に強制移住させられ、騎士団側に付いた者達はドイツ人に同化して行き、プロシア文化とプロシア人は消滅した。ドイツ人の東方殖民の一環として空いた土地にはドイツ人の入植を奨励したため、やがてプロシアはドイツ人の地となっていった。
1291年に聖地のアッコンが陥落し、ドイツ騎士団はベネチアに移り、キプロス王やホスピタル騎士団と共に聖地奪回を図るが、1307年にテンプル騎士団がフランス王フィリップ4世によって壊滅されられたのを見て、騎士団国の経営に本腰を入れることになり、1309年にプロシアに移ってマリエンブルクを本拠地とした。
リトアニアでは1295年にヴィテニスが大公となって統一を回復し、手強い相手となり、継続的な戦いが繰り広げられることになった。
一方、ポメレリアでは、ブランデンブルク辺境伯とポーランド王との争いに介入して、1309年までにポメレリアとダンツィヒを入手し、神聖ローマ帝国と騎士団領を結ぶ事に成功したが、海への出口を塞がれたポーランドと対立することになった。
騎士団領内のダンツィヒやリガ等の諸都市はハンザ同盟に加盟しており、ドイツ騎士団自体も同盟者として、海賊ヴィタリエン兄弟団の討伐に参加してゴットランド島から追い出すことに成功している。
14世紀に騎士団国家は最盛期を迎えたと言える。
しかし、1386年にリトアニア大公ヨガイラがポーランド女王ヤドヴィガと結婚してカトリックに改宗すると状況は大きく変わった。
*10 ポーランドとは以前から抗争しており、少なくともポーランド並の文化・軍事レベルはあったはずであり、マゾフシェ公はその攻勢に耐えかねてドイツ騎士団を呼んだのだ。
従って、バルト人の抵抗も激しく、ドイツ騎士団の征服はすんなり順調に行ったわけではないが、バルト人は部族に分かれて統一されておらず相互に歴史的対立があり、またカトリックに改宗すれば攻撃されずに済む*11ため協力体制が取りにくいのに対して*12、ドイツ騎士団は十字軍として他の西欧*13から常に物的・人的援助を受けながら継続できるため、個々の戦いでバルト部族が勝利しても、結局、相継ぐ戦争の被害に疲れてカトリックへの改宗を選択し、徹底抗戦する者は殺されるか逃亡することになった。騎士団によるプロシア征服はクルムランドから始まりヴィスワ川沿いに城砦を築いて勢力を広げ、1260年までにプロシアの過半を支配下に収めていた。
*11 多くの多神教徒にとっては宗教は利益があるかどうかで、カトリックの方が有利と見れば改宗することになる。メロビング朝のクロヴィスの改宗が正にそうだった。一方、一神教徒は、しばしば殉教を選択する。
*12 結局、リトアニアだけが早めに協力体制を作り、ミンダウカスの下で統一されたため有効な抵抗を行うことができた。1253年にカトリックに改宗しているが、1260年のプロシアの大反乱時に多神教に戻ったようだ。
*13 西欧全般から個々の参加もあるが、ドイツ東部の諸侯の参加が大きい。リヴォニア、エストニア方面では北欧諸国の寄与が大きい。
修道騎士団の強さは、その資金力により装備が良いこと*14、修道士として家族を持たず聖戦で戦死することを名誉と考えるため命を惜しまないことにある。
修道騎士団の戦い方は、しばしば作戦も何もなく突撃するだけであるが、最新の甲冑で身を固めた決死の騎士に飛び込まれると余程、組織的に統制の取れた敵でなければ怖気づいて楔を打ち込まれることになり*15、混乱した所を、それ程、戦意旺盛ではないが数は多い諸国から集まった十字軍士や地元の同盟軍が続くことにより戦果を拡大した。
またバルト地域ではあまり堅牢な城は作られず*16、攻城兵器も持たなかった為、ドイツ騎士団は要所々に堅牢な城を築くことで支配地域を広げて行くことができた。
*14 聖地騎士団には西欧中から寄付・寄進が集まり、多くの所領を経営する上、金融や医療その他のサービスによる収入があり、さらに騎士団に入る貴族の子弟は相当の財産を持参するが、彼らが死去すると全て騎士団の所有物となるため非常に裕福で、装備は最新・最高の物を使用できた。
*15 将棋で言えば、単純な棒銀と穴熊戦法(城砦での防衛)であるが、素人では受けきることが難しいのと似ている。
*16 西欧では十字軍の後にイスラム・ビザンティンの技術を導入して築城技術が発達していた。
この期間の重要な事件としては、ラトビア・エストニアを征服していたリヴォニア帯剣騎士団がサモギティアを巡って1236年の「ザウレの戦い」でサモギティア・リトアニア軍に敗れ、ドイツ騎士団と合併したこと*17と、1241年に「レグニツァの戦い」でモンゴル軍にシロンスク公を中心としたポーランド連合軍が完敗し、元々王がいなく各公が割拠状態だったポーランドは一層の分裂と混乱に陥り、プロシアへ関与する余裕がなくなったことである。またルーシ方面への進出は1242年の「氷上の戦い」でノブゴロド公国のアレクサンドル・ネフスキーに敗れて頓挫している。
*17 以降、ドイツ騎士団内のリヴォニア騎士団として存続した。サモギティアはプロシアとリヴォニアの間に存在し、ここを征服すると騎士団領土は一つに繋がるため、ドイツ騎士団とリトアニアは継続的に争うことになる。
リトアニアでは1253年にミンダウカス王がカトリックに改宗し、ドイツ騎士団とも和睦してサモギティアの多くを割譲したが、リトアニアでは不評で貴族達は奪回を図り、1260年のドゥルベの戦いでドイツ騎士団に大勝したが、この勝利はキリスト教より多神教の方が優れている証明と考えられ、プロシアの大反乱が発生した。また、ミンダウカス王の権威は低下し、1263年に暗殺されて、リトアニアは抗争の時代を迎え多神教に戻っている。
聖地ではマムルーク朝の攻勢に対する防衛で手一杯であり、ドイツ諸侯は大空位時代を迎えて抗争に忙しく援助できず、1274年までドイツ騎士団の征服事業は中断し反乱の鎮圧に費やされることになる。
しかし、ドイツの情勢が落ち着くと共にチューリンゲン方伯、ブランデンブルク辺境伯、マイセン辺境伯などが支援を始め、1283年までにプロシアはほぼ平定され、その後も反乱はあったが、13世紀末までにプロシアの支配は確立した。
生き残った者の多くはリトアニアに逃れ、降伏した者は権利を奪われて他の地域に強制移住させられ、騎士団側に付いた者達はドイツ人に同化して行き、プロシア文化とプロシア人は消滅した。ドイツ人の東方殖民の一環として空いた土地にはドイツ人の入植を奨励したため、やがてプロシアはドイツ人の地となっていった。
1291年に聖地のアッコンが陥落し、ドイツ騎士団はベネチアに移り、キプロス王やホスピタル騎士団と共に聖地奪回を図るが、1307年にテンプル騎士団がフランス王フィリップ4世によって壊滅されられたのを見て、騎士団国の経営に本腰を入れることになり、1309年にプロシアに移ってマリエンブルクを本拠地とした。
リトアニアでは1295年にヴィテニスが大公となって統一を回復し、手強い相手となり、継続的な戦いが繰り広げられることになった。
一方、ポメレリアでは、ブランデンブルク辺境伯とポーランド王との争いに介入して、1309年までにポメレリアとダンツィヒを入手し、神聖ローマ帝国と騎士団領を結ぶ事に成功したが、海への出口を塞がれたポーランドと対立することになった。
騎士団領内のダンツィヒやリガ等の諸都市はハンザ同盟に加盟しており、ドイツ騎士団自体も同盟者として、海賊ヴィタリエン兄弟団の討伐に参加してゴットランド島から追い出すことに成功している。
14世紀に騎士団国家は最盛期を迎えたと言える。
しかし、1386年にリトアニア大公ヨガイラがポーランド女王ヤドヴィガと結婚してカトリックに改宗すると状況は大きく変わった。
東方征服 ドイツ騎士団(3) - 凋落
ポーランドとリトアニアが同君連合になることで、騎士団国家は囲まれ、リトアニアがカトリックに改宗することで、多神教徒の討伐・改宗=十字軍という大義名分が失われてしまった。
それでもリトアニアの改宗は偽りで本心からのものではない*18と主張して戦いを続け、リトアニアにおけるヨガイラとヴィタウタスの争いに乗じてサモギティアを得るなど、この時期に最大領土に達したが、ヨガイラとヴィタウタスが和解すると、1410年のポーランド=リトアニアとの「タンネンベルク(グルンヴァルト)の戦い」で総長以下、多数の幹部が戦死する記録的な大敗を喫した。
*18 実際、ヨガイラが改宗してカトリックを受け入れたが強制はせず、リトアニアには多くの多神教徒が残っていた。
1414年からのコンスタンツ公会議でドイツ騎士団は、リトアニアの改宗を偽装として、それに連合するポーランド共々、十字軍の対象であると主張したが受け入れられず、大義名分は失われ、西欧の人的・物的援助は期待できなくなった*19。傭兵に頼ることで一層の出費が必要となり、さらにタンネンベルクの戦いの捕虜の身代金や賠償金は巨額で騎士団の財政を圧迫し、重税を課せられた領内の貴族・都市・民衆の不満は高まって行った。
*19 賠償金は一時的なものだが、西欧の援助がなくなることは恒久的な影響がある。
ポーランド=リトアニアとの領土争いは続き、1419年からフス戦争が始まると神聖ローマ皇帝ジギスムントはドイツ騎士団の協力を求め、ボヘミアのフス派はポーランド=リトアニアに支援を要請して抗争の範囲は拡大した。
さらに、1431年からリトアニア大公ヴィタウタスの死去による継承戦争が起こった(ヤギェウォ家の人々 参照)。
リトアニアではヨガイラの弟シュヴィトリガイラを大公に選出したが、ポーランド貴族はヴィタウタスの弟ジギマンタスを支持し、シュヴィトリガイラはドイツ騎士団と同盟した為、シュヴィトリガイラ・ドイツ騎士団・皇帝ジギスムント 対 ジギマンタス・ポーランド・フス派の対立構造が生まれ、騎士団は再びポーランドに侵攻した。
しかし、1433年にフス派軍はポーランドと共にドイツ騎士団領に侵攻して勝利し、バルト海まで行進した。騎士団は戦争の継続を望んでいたが、重税や略奪で疲弊した都市などは和平を望み、ポーランドとは和睦した。リトアニアの内戦は1435年の「パバイスカスの戦い」でジギマンタスの勝利に終わり、リヴォニア騎士団は壊滅的損害を受け、ドイツ騎士団/リヴォニア騎士団の凋落を決定付けることになった。
プロシアでは相継ぐ敗戦による被害と重税や貴族・都市の参政を認めない修道騎士団による一方的な支配への不満は蓄積され、1440年に主要な貴族・都市はプロシア連合を結成した。ドイツ騎士団との交渉が続けられたが、騎士団総長は強硬な態度を取り、1453年に皇帝フリードリヒ3世に訴えてプロシア連合が違法であるとの裁定を受けた為、プロシア連合はポーランド=リトアニアに庇護を求めてドイツ騎士団との戦いに踏み切った。
1454から66年まで続いた13年戦争は、最終的にドイツ騎士団の敗北に終わり、西プロシアはポーランド王国に組み込まれ、残りのドイツ騎士団領もポーランドの宗主下に置かれることになった。
その後もポーランドとの争いは続いたが、もはや単独で対抗することが難しくなった騎士団は1490年代から総長にドイツ諸侯の子弟を選ぶようになり、1511年にはブランデンブルク選帝侯の息子アルブレヒト・フォン・ブランデンブルクを選出した。総長アルブレヒトはポーランド王ジグムント1世の甥でもあるのだが、ドイツ騎士団の勢力回復を図って1519年からポーランドとの戦争に踏み切った。双方勝敗が有り決着が付かないまま、オスマン帝国のハンガリー侵攻が始まり、皇帝カール5世の要求により1521年に4年間の休戦を結んだ。
ドイツの支援を受けても勝てず、新たな対策を考える中で、修道騎士団の役割が終わったことを改めて感じ、プロシアを維持するには世俗諸侯としてポーランド王の臣下になる方が良いと考えたのだろう*20。
アルブレヒトは宗教改革を唱えるマルティン・ルターに感化されルター派に改宗し、ルターやブランデンブルクの親族の勧めもあり、1525年にプロシア公として叔父ジグムント1世の封臣となった*21。
*20 何しろポーランドは「黄金の自由」と呼ばれる貴族の力が強い地である。
*21 所謂「プロイセンの臣従」である。
これがプロシアにおける騎士団国家の終焉だった。ドイツ騎士団は新たな総長を選出して存続しプロシア奪回も狙っていたが、神聖ローマ帝国での宗教戦争で手一杯で、新教諸侯の下にあった所領は没収された。
1531年にヴュルテンベルクのメルゲントハイムに本拠地を移し、帝国内に残った領土で帝国諸侯の地位を維持し、1555年のアウグスブルクの和からはルター派も加わるようになった。
また、1558年からリヴォニア戦争が始まり、1561年にリヴォニア騎士団長がクールラント公国を作って世俗化し、やはりポーランドの宗主下に入ってしまった。
ドイツ騎士団総長は大諸侯の家門から選ばれるようになり、1761年以降はハプスブルク家が総長となり、対オスマン戦争の尖兵の役割を果たしたが、1809年にナポレオンの命令によって解散させられ軍事的役割を終え、1923年までオーストリアでカトリックの修道会として存在した。
現在、その衣鉢を継ぐ組織はいくつかあるが、カトリックのドイツ修道会は1000人近いメンバーを持って慈善活動を行っており、創設時の理念に戻ったともいえよう。
それでもリトアニアの改宗は偽りで本心からのものではない*18と主張して戦いを続け、リトアニアにおけるヨガイラとヴィタウタスの争いに乗じてサモギティアを得るなど、この時期に最大領土に達したが、ヨガイラとヴィタウタスが和解すると、1410年のポーランド=リトアニアとの「タンネンベルク(グルンヴァルト)の戦い」で総長以下、多数の幹部が戦死する記録的な大敗を喫した。
*18 実際、ヨガイラが改宗してカトリックを受け入れたが強制はせず、リトアニアには多くの多神教徒が残っていた。
1414年からのコンスタンツ公会議でドイツ騎士団は、リトアニアの改宗を偽装として、それに連合するポーランド共々、十字軍の対象であると主張したが受け入れられず、大義名分は失われ、西欧の人的・物的援助は期待できなくなった*19。傭兵に頼ることで一層の出費が必要となり、さらにタンネンベルクの戦いの捕虜の身代金や賠償金は巨額で騎士団の財政を圧迫し、重税を課せられた領内の貴族・都市・民衆の不満は高まって行った。
*19 賠償金は一時的なものだが、西欧の援助がなくなることは恒久的な影響がある。
ポーランド=リトアニアとの領土争いは続き、1419年からフス戦争が始まると神聖ローマ皇帝ジギスムントはドイツ騎士団の協力を求め、ボヘミアのフス派はポーランド=リトアニアに支援を要請して抗争の範囲は拡大した。
さらに、1431年からリトアニア大公ヴィタウタスの死去による継承戦争が起こった(ヤギェウォ家の人々 参照)。
リトアニアではヨガイラの弟シュヴィトリガイラを大公に選出したが、ポーランド貴族はヴィタウタスの弟ジギマンタスを支持し、シュヴィトリガイラはドイツ騎士団と同盟した為、シュヴィトリガイラ・ドイツ騎士団・皇帝ジギスムント 対 ジギマンタス・ポーランド・フス派の対立構造が生まれ、騎士団は再びポーランドに侵攻した。
しかし、1433年にフス派軍はポーランドと共にドイツ騎士団領に侵攻して勝利し、バルト海まで行進した。騎士団は戦争の継続を望んでいたが、重税や略奪で疲弊した都市などは和平を望み、ポーランドとは和睦した。リトアニアの内戦は1435年の「パバイスカスの戦い」でジギマンタスの勝利に終わり、リヴォニア騎士団は壊滅的損害を受け、ドイツ騎士団/リヴォニア騎士団の凋落を決定付けることになった。
プロシアでは相継ぐ敗戦による被害と重税や貴族・都市の参政を認めない修道騎士団による一方的な支配への不満は蓄積され、1440年に主要な貴族・都市はプロシア連合を結成した。ドイツ騎士団との交渉が続けられたが、騎士団総長は強硬な態度を取り、1453年に皇帝フリードリヒ3世に訴えてプロシア連合が違法であるとの裁定を受けた為、プロシア連合はポーランド=リトアニアに庇護を求めてドイツ騎士団との戦いに踏み切った。
1454から66年まで続いた13年戦争は、最終的にドイツ騎士団の敗北に終わり、西プロシアはポーランド王国に組み込まれ、残りのドイツ騎士団領もポーランドの宗主下に置かれることになった。
その後もポーランドとの争いは続いたが、もはや単独で対抗することが難しくなった騎士団は1490年代から総長にドイツ諸侯の子弟を選ぶようになり、1511年にはブランデンブルク選帝侯の息子アルブレヒト・フォン・ブランデンブルクを選出した。総長アルブレヒトはポーランド王ジグムント1世の甥でもあるのだが、ドイツ騎士団の勢力回復を図って1519年からポーランドとの戦争に踏み切った。双方勝敗が有り決着が付かないまま、オスマン帝国のハンガリー侵攻が始まり、皇帝カール5世の要求により1521年に4年間の休戦を結んだ。
ドイツの支援を受けても勝てず、新たな対策を考える中で、修道騎士団の役割が終わったことを改めて感じ、プロシアを維持するには世俗諸侯としてポーランド王の臣下になる方が良いと考えたのだろう*20。
アルブレヒトは宗教改革を唱えるマルティン・ルターに感化されルター派に改宗し、ルターやブランデンブルクの親族の勧めもあり、1525年にプロシア公として叔父ジグムント1世の封臣となった*21。
*20 何しろポーランドは「黄金の自由」と呼ばれる貴族の力が強い地である。
*21 所謂「プロイセンの臣従」である。
これがプロシアにおける騎士団国家の終焉だった。ドイツ騎士団は新たな総長を選出して存続しプロシア奪回も狙っていたが、神聖ローマ帝国での宗教戦争で手一杯で、新教諸侯の下にあった所領は没収された。
1531年にヴュルテンベルクのメルゲントハイムに本拠地を移し、帝国内に残った領土で帝国諸侯の地位を維持し、1555年のアウグスブルクの和からはルター派も加わるようになった。
また、1558年からリヴォニア戦争が始まり、1561年にリヴォニア騎士団長がクールラント公国を作って世俗化し、やはりポーランドの宗主下に入ってしまった。
ドイツ騎士団総長は大諸侯の家門から選ばれるようになり、1761年以降はハプスブルク家が総長となり、対オスマン戦争の尖兵の役割を果たしたが、1809年にナポレオンの命令によって解散させられ軍事的役割を終え、1923年までオーストリアでカトリックの修道会として存在した。
現在、その衣鉢を継ぐ組織はいくつかあるが、カトリックのドイツ修道会は1000人近いメンバーを持って慈善活動を行っており、創設時の理念に戻ったともいえよう。